2023年2月10日金曜日

FFは、全部やってるわけじゃないけど……。

『FF』シリーズ史上、最も「好き嫌い」が分かれる?『VIII』の賛否議論が絶えないワケ

 賛否どころか、ワシ8やっとらん……。
 そもそもシリーズの熱狂的なファンとかじゃないから、FFでちゃんとやったことあるのは、Ⅴ・Ⅵ・Ⅶ・Ⅸ・Ⅹのみ。
 まぁ十分やってる方か。
 一番ハマったのはⅨ。
 ちょうど高校の時の発売で、通学途中にあるコンビニで予約して、発売日の朝、買いながら学校行った。
 デジキューブとかね、懐かしい。

 8やらなかった理由は、ちょうどそのころゲーム以外の活動にハマってたからだけど、個人的に黒歴史過ぎて、ここでは書けない。
 その内容を書くと、個人を特定される危険が1000000%上昇するので、絶対に書けない。

 そういうわけでというのもあるけど、FF8に関しては、面白くないからやらなかったというか、ちょうどタイミングが合わなかった作品って気がする。
 8という作品に賛否の議論が付きまとうのは、そういう部分だよ。
 もちろん、ワシの黒歴史が、という話ではなくて。
 直前のナンバリングのFFⅦがもたらした、家庭用機でのRPGというゲームの変革の余波が、収まりきっていなかったのではないか、ということ。
 
 あの時代に、まだ若いオタクだったからわかるんだけど、それまで、大多数の子供たちにとってRPGというのは『スーファミのゲーム』だった。
 そのころすでに、家庭用ゲーム機には『プレイステーション』の発売という革命があって、同機の初期の名作『アークザラッド』なども十分に名声を得ていたものの、日本に御置けるRPGの代名詞であったFFもドラクエも、まだプレイステーションのゲームではなかった。そのため、スーパーファミコンがRPGの原初体験であった世代には、RPGは『ドット絵の御伽噺』という感覚が大いに植え付けられていた。私たちは、それを楽しみこそすれ、画面の向こうとこちら側が違う世界であるということを自覚していて、登場人物たちの物語を楽しみこそすれ、臨場感や一体感というものは、まだ感じていなかったと思う。
 それがFFⅦの登場によって、「精緻に構築された架空世界の中に没入する」という体験型のエンターテイメントにランクアップした。魔晄炉の怪しい光と、複雑な街並みは、美しい映像の演出とともに画面の前のプレイヤーの目に焼き付いて、キャラクターたちと共に歩む世界の旅路に奥行きをもたらして、どこか感動的だった。
 それは、それ以前にアニメが経験した、紙芝居からテレビまんがになった鉄腕アトム、テレビまんがからアニメになった機動戦士ガンダムのような、技術の革新を経て起きる明確なゲームの革命であったように思う。

 この頃は、クリエイター側が「創りたい」と言って目指すものに、技術側の方が追い付いてきた時期でもある。
 リアルタイプのレースゲームのグランツーリスモや、人間空間シミュレーションのひな型である高機動幻想ガンパレード・マーチ、ゲームの結果を一つの映像として構築するやるドラシリーズなどなど、いろんな形のゲームが生み出され、そして楽しまれた。
 その中の一つとして、ファイナルファンタジーというシリーズは、ナンバリングタイトルであるⅦ以降は、ゲームと映画(映像)の融合の可能性を一つの指標として、その発展と進歩を目指したと思われる。
 イベントシーンの美麗化という意味では、8などはそれを地で行く作品であることは間違いないし、また一部ファンからいまだに口の端に上る映画ファイナルファンタジーなども、その例に含まれる。
 ファイナルファンタジーは、Ⅶから8にかけて、ゲームを革命して映画の持つ力を取り込むことによって、他のRPG作品との差別化を明確にしようと試みた。

 ところで一方、ゲームには「やる側」としてプレイヤーという存在がある。
 アニメでは、テレビの前のみんなは究極的には、「観る」という手段をもってしか作品を受容できないが、ゲームには、提示されたものをプレイして楽しむというところまでが、テレビの前のみんなの求めるところだ。これが、アニメとゲームの大きな違いとしてある。
 ゲームのプレイヤーは、テレビの前で、そしてスクリーンの前で、ただ映像が流れていくのをみているだけではない。自らが主人公として、画面の中の人物たちと一体化して、その物語を同時追体験する存在として、ゲーム作品をプレイする。
 ゲームはどこまでもやる側の人間のもの。

 このクリエイター側とプレイヤー側の衝突が起きた事例が、FF8なんだと思う。
 ゲームを作るためにいろいろな手段と方法が確立されていくにつれ、システムも物語も複雑化して、どこかプレイヤーを置き去りにしたようなゲームになってしまった。
  ゲームとしての「出来はいい」んだけど、プレイヤーが「やりたい」と思っていたものとは、大きなズレがあったのではないだろうか。

 これは西暦2000年前後に発売されたゲームの多くが抱えていた問題だと思う。
 私の好きな『ガンパレード・マーチ』なんかもコレで、ハマると面白いゲームなのだが、ハマるまでの敷居が高く、遊ぶ方の身になっていない作りが時に批判の的になる。
 PS2の作品になるが、『ICO』なんかもこれに当たると思う。ゲーム性や世界観、販促のキャッチコピーまでもが、絶賛されるに値する名作ではあるが、売り上げ的には振るわず「単発としてはよくやったよ」という程度にとどまる。

 この年代のゲームには、スーファミ時代とはまた趣を異にした唯一無二の個性を持つ作品が数多くあるが、その分だけ、ゲーム創る側と、ゲームやる側の意識に激しい乖離が生まれてしまったのだとも言える。
 ガンパレやICOのような独立IPがそうであるのなら、ただ「売れなかったゲーム」になるが、ファイナルファンタジーという日本のRPGを代表するシリーズの作品でそれをやってしまうと、プレイヤー側からの反発が大きく表れてしまうのかもしれない。

 次作にあたるFFⅨが、ファイナルファンタジーの原点回帰みたいな内容で売り上げを伸ばしたことも、その表れであるような気がする。 
 いろんなことできるようになったから、いろんなことしたい! 小細工がしたい! と思った制作側と、いろんなことできなくていい! 普通にRPG遊びたい!って思ったプレイヤー側のズレというか、当時からあった不満が蓄積して、本来なら当時のゲーム業界全体に対して向けられるものであったはずの評価が、メジャータイトルとしてふんぞり返っていたFFの「8」という作品にだけ向けられてしまっているという向きはあると思う。

 まぁ大御所ぶってるスクエニの人らの責任も多大なるものがあるとしても、昔はそういうの、FF8だけじゃなかったんだよ。とだけ言っておきたい。


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