2023年4月27日木曜日

マリオ映画の成功を見て、ディズニーのポリコレ姿勢をけなすのは筋違い。


 マリオの映画が大成功しているとのこと、まことに重畳。
 同時に、それと比して近年のディズニー映画が社会的公平性に重きを置いて、メッセージ性偏重の路線を採っていることに対する不満を述べる向きも大いにある。

 うーん。
 個人的には、その向きに同調しないでもない。
 一見すると、ポリティカルコネクトレスに異常なまでに傾倒するように見える近年のディズニー映画作品には、娯楽作品として観るべき『魅力がある』とは言い難い。
 正直な話、新作映画が出るたびに、まーたつまらん映画作っとるなとは思う。

 だけれど、以前、何かの折に少し触れたように、ディズニーという会社にとって『差別や偏見と戦うこと』は、ウォルト・ディズニーという人が志向した目的の一側面であり、世界に誇るミッキーマウスというキャラクターが『この世に生み出された理由』でもあるので、それをやめてしまったら、『それはもはや、ディズニーではない』のだ。

 そもそもミッキーマウスの生みの親、ウォルト・ディズニーが、ミッキーマウスを生み出した理由は、自らが置かれたアメリカでのアイルランド人差別という境遇に、その故がある。

 アメリカにおけるアイルランド人差別というものを知る人は、あまりいないと思う。
 おそらくは、現代のアメリカ人ですら、明確にそれを認識しているとは言い難い。
 それは、アメリカにおいてなぜアイルランド系マフィアや、イタリア系マフィアという存在があるのか、そして、なぜ彼らが絶望的なまでに対立関係にあるのか、というアメリカの根本にも繋がる諸問題の種であり、北米大陸に厳然としてあった過去の事実の一つとして挙げられる。
 
 かつてのこと。
 『新大陸』であった北米大陸へ、ヨーロッパの国々から移住を行った人々は、多様な地域の出身者で構成されていた。
 その中に、イングランド人やイタリア人、ドイツ人、オランダ人たちとともに、アイルランド人もそれなりの数がいた。
 いや、それなりの数がいたなんてもんじゃない。
 19世紀の終わりには、全米の移民人口の約半分がアイルランド人だった。
 数が多かったのなら、かなりの発言力があったのでは? と思いがちだが、事はそう単純ではない。
 いや、単純に言ってしまうと、アイルランド人というのは新大陸の秩序にとって「かなり厄介な人々」だった。

 アイルランド系移民には、大別すると二種類の人たちがいて、移民開拓の初期1600年代に入植した比較的少数の『スコッツアイリッシュ(スコットランド系アイルランド人)』と、開拓末期に大量入植したカトリック系アイルランド人に分けられる。

 出自の違いはあるものの、どちらもアイルランド人らしい厄介さをもっていて、スコッツアイリッシュ達は北米に渡ったあとに、先に入植していた人たちが構築していたローカルルールや、地域ごとの宗主国の法律に従うことを拒否し『大胆かつ貧乏なよそ者たち』と呼ばれ、疎まれていた。
 カトリック系アイルランド人達の方は、『カトリック系』とわざわざつけられていることからも分かる通り、宗教的な対立を持ち込んだ人々として疎まれた。
 このうち特に問題になったのは、カトリック系アイルランド人の移民だ。
 
 この問題をもう少し詳しく認識するために知っておくべき知識として、当時の18世紀アメリカの宗教事情がある。
 カトリック系アイルランド人移民がやってくる前、1700年代中~後半のアメリカでは、開拓の過酷さやそれにともなう治安の悪さなどから、大多数の人たちが、精神的、肉体的に与えられた『自由』という概念に、ハッキリ言って疲れ果てていた。
 それを解決するために、自分たちがその昔、欧州大陸に捨ててきた『宗教』というくびきを思い出し、この頃に、『大いなる覚醒(Great Awakening)』と呼ばれる信仰復興運動がはじまった。
 字面から危険なものを感じないでもないが、これはカルト的なものでもなんでもなくて、単にその頃失われていた開拓初期の精神である『キリスト教プロテスタント』の復興運動だ。
 この結果として、皆様も最近よく目にするだろう『キリスト教福音派』と呼ばれるプロテスタント極右派が誕生するわけだけど、そういうわけで、当時の北アメリカ大陸はキリスト教プロテスタントが強かった。というか、北米大陸に入植した初期移民者たちのほとんどが清教徒だったのだからそれも当たり前なのだが、今も連綿と続く『アメリカの宗教』は、この頃に完成し、彼ら福音派は、アメリカに生きる人々の拠り所となった。

 そこへ、「カトリック系アイルランド人」が大量入植してくる。
 これがなぜかというと、1840年代、かの有名なアイルランドの『ジャガイモ飢饉』という大事件が発生して、主食であるジャガイモの収穫が壊滅したアイルランドをもはや捨て、新大陸で暮らすしかないと、多くの人が海を渡ったのである。

 北アメリカ大陸ではもともと、前述のようにスコッツアイリッシュが、他の人々との摩擦を厭わないタイプだったために問題を抱えていて、そこへさらに、カトリック系といういわばプロテスタント系からすれば敵であるような立場の人々が、超大量に入植してくるのである。
 このカトリック系アイルランド人たちは、マジで大量に海を越えてきた。
 しかも食いつめ者の貧乏人が、死ぬのも覚悟で海を渡るとなれば、その船旅の環境は最悪で、移民船の船内は、食い物はないのにすし詰め状態で、その衛生環境は、かの悪名高い奴隷船もかくやという状況だったらしい。そのせいもあって、カトリック系アイルランド人たちは、アメリカ大陸へ多くの病気を持ち込んだ。また、大量ってホントに大量で、当時の北米大陸の人口の半分以上がカトリック系アイルランド人になるほど、大勢のアイルランド人が押し掛けた。(それは現代アメリカでも続いていて、今でも人口の一割強が自らをアイルランド系と自認する人たちで占められている)

 このような理由もあって、当時、最下層であったイタリア系移民から恰好の攻撃目標とされた新規のアイルランド系移民たちは、まさに疎まれ蔑まれ、新たな社会の最底辺(黒人の扱いは最底辺以下だからね?)として生きることになる。
 彼らは「ミッキー(ジャガイモ野郎)」と呼ばれバカにされるわけだけど、これと闘い、アイルランド人の社会的地位を向上させようとしたのが、つまりウォルト・ディズニーという人なわけ。
 当時差別用語であった「ミッキー」という蔑称を、愛らしいキャラクターとして社会に浸透させることで、言葉の持つ価値そのものを変えてしまおうというこの戦いは、まさに歴史に記されるべき平和な戦いであったと思う。
 ウォルトは単純にエンタメとしてアニメーションに傾倒したわけではなく、BLM運動のように暴力で差別と対峙したわけでもない。ひっそりと、しかし力強い創意でもって差別や偏見と戦った人なのだ。
 今のディズニーという会社が、その志を受けてポリティカルコネクトレスを重視することは、間違ったことではないと思う。

 任天堂が生み出したマリオというキャラクターは、みんなを楽しませるために生まれた純粋に商業的な存在だ。
 しかし。
 ウォルトが生み出したミッキー・マウスというキャラクターは、差別と戦うために生み出された存在だ。
 マリオとミッキーという二つのキャラクター、そして、それを強力に利用して勢力を拡大する任天堂とディズニーという二つの企業は、お互いに似通った性質を持った存在だと思えるし、この二人のキャラクターを、エンターテインメント分野で競い合う日米を象徴するキャラクターとして比べたくもなるけれど、その存在理由には、これほど大きな違いがある。

 ディズニーという会社は、差別との戦いをしないわけにはいかないどころか、世界で一番、それをしなければならない会社だ。
 もっと言えば、ディズニーには「差別や偏見と戦う責任がある」とさえ言っていいと思う。
 ミッキーを作り出した男が、その差別との戦いに勝利してできたのが、ウォルト・ディズニーカンパニーという巨大な力であるのだから、彼らは差別と闘う旗頭であり続けなければならないのだ。

 ただ、もっとやりようはあると思う。
 最近のディズニーの映画は、あまりにも説教臭くて、みんなが楽しむよりも先に、なんだか白けてしまう。
 現実を忘れたくて、ファンタジーを求めるということを、ディズニーは今一度思い出すべきだ。
 差別に苦しむアイルランド人の苦境を、ミッキー・マウスというファンタジーに託した意義を、今一度。