先に予防線張っちゃうけど、ワシは『ゴジラが好き』で、ガメラについてはそこそこ。
それほど思い入れないから、逆に好き勝手語ったっていうことで、そこまで詳しくない。
ゴジラについて語れやって思うかもしれないけど、ゴジラについて語って傷つくのを恐れて、なかなか記事にできんということに、最近気が付いた。
これについては、ガンダム、ウルトラマン、音楽なんかについても同様。
好きなものほど語るのが怖い。
記事の内容には、全面的に同意する。
日本の怪獣特撮の最高峰は、間違いなく平成ガメラの1・2であることは、疑いようがない。
ただ、同率の首位に84年版ゴジラがあることだけは忘れないでおいてほしい。
実を言わせてもらうと、ガメラの映画って、それ以外はほとんど見たことがない。
ちゃんと観たことがあるのは、『ガメラvsギロン』(ガメラ対大悪獣ギロン)だけ。
『いや、宇宙怪獣バイラスのも観てたはず』という情報もあるにはあるが、検索してみたところ、あんなイカの化け物の映画なら、本気で観てたら覚えてるはずやけ、覚えとらんということは、観てないっちゅうこっちゃ(何
確実に観てた方である『ガメラ対大悪獣ギロン』を掻い摘んで紹介すると、宇宙人によって秘密裏に誘拐され、その母星に連れ去られた少年二人(日本人少年&白人少年という面白いコンビ)を、ガメラが助けに行く、という単純明快な内容。登場怪獣は、ガメラとギロンのほかには、ギャオス(宇宙ギャオスという亜種。銀色!)が出てくる。
基本的には、宮沢賢治の『注文の多い料理店』をプロットとして採用した造りになっていて、誘拐された少年二人は、当初宇宙人たちから至れり尽くせりのおもてなしを受けるのだが、実はそれは、地球人の子供を食料にするためのものだった……! という、結構なSFホラー。少年二人は、食料にされるために丸刈りにされてしまうというシーンもあり、今思うと、子役ながら役者根性あるよなって話でもある。
ワシは小さいころに、この映画のビデオを、やんごとない理由から、ウルトラマン(ゴモラ回の前編)と組み合わせてヘビロテで見せられていたのだけれど、何周回しても飽きずに見ているほど、たまらなく好きだった。
好きだった理由は、ガメラが好きとか怪獣映画好きとか、そういうことではなく、劇中、宇宙人たちに、『頭の中でお願いするだけでなんでも具現化してくれるマシーン』を与えられた少年たちが、美味しそうにドーナッツを食べるシーンが、もうたまらなく『好き』だったから。本当に美味そうなんですわ、このドーナッツを食べて、牛乳をごくごく飲むシーンが。
つまり花より団子ならぬ、ガメラよりドーナッツなわけだけど、この映画はそれ以外にも当然、見どころはある。
まず、ギャオスが銀色。
このせいでワシはずっと、ギャオスってのは銀色の怪獣だと思っていた。
だから、平成ガメラの一作目『大怪獣空中決戦』で、ギャオスが銀色をしてないことに衝撃を受けた。事前情報で『敵はギャオス』ってのはわかっていたから、「銀色をしてないギャオスは偽物。最後には、銀色のギャオスが出てきてガメラと戦うはず!😤」って得意満面で予想していたら、ならねぇじゃん!ってみんなから総突っ込みされた覚えがある。
三作目の『イリス覚醒』のときに、ほらぁ!なったやんけ! イリスは銀色のギャオスじゃ! ワシはガメラも得意だから知ってたんじゃ! って主張したけど、なんかダメだった(悲しき過去)
ちなみに、『大悪獣ギロン』では、ギャオスはクソ雑魚モブのかませ。ちぎってはなげちぎってはなげされる。しかもギロンに食べてもらえないくらい肉が臭い。
次に、ギロンが結構かわいい。
タイトルにもなるメインの悪役怪獣ギロンは、さすが宇宙レベルの怪獣だけあって相当強く、ガメラも腕が切り落とされるなど大苦戦するが、こいつがまた、頭ドス(文字通り、頭がドスになっている)の四つん這いヨチヨチ歩き野郎(四足歩行ではない)という見た目ながら、その実、室内飼いの小型犬みたいなキッチュな愛嬌があり、今でいう所の、チェンソーマンのポチタを先取りしたような不思議な魅力のある怪獣なのだ。
ポチタが仮に、サムライソードの悪魔だった場合、もしくは出刃包丁の悪魔だった場合、名前はギロンになるだろうというくらいには、かわいい(ぉ
しかもこいつが、頭ドスしか能がないかといえばそんなこともなく、側頭部についたへこみに手裏剣様の飛び道具が備えられていて、こいつが強力。ギャオスに攻撃されるのにもつかわれたし、ガメラもこの手裏剣に悩まされて(刺さったままだと痛いので手から外そうとした隙を突かれたような覚えがある)、結果、一度はやられてしまう。
しかし最終的には、(ガメラによって)その手裏剣穴にミサイルを突っ込まれてやられる。
あと、役者が豪華。
ワシがなぜ暴れん坊将軍で、初代・傅役のじい(船越英二)の顔に見覚えがあったのかとか、サスペンスドラマ赤い霊柩車シリーズで、なぜ「あきこは~ん!」の大村崑に見覚えがあったのかという疑問に、すべて答えてくれるのも、この映画のいいところである(個人的に過ぎる)
そして最後に、ガメラが宇宙で活動する。
ワシはこの映画で、宇宙の星々をバックにローリングして飛んでいるガメラを観ていたものだから、ガメラというのは宇宙怪獣だとずっと思い込んでいたために、地球の守護神という平成ガメラの設定は、思い切った方向転換だなぁと思っていたんだけど、そうじゃなくて、「あれはガメラの地球外初戦なのである」と聞いて、へぇ~ボタンを押したくなった。
押したくなったのである。
というくらいで、ワシのガメラ基礎知識は終わる。
ただ、平成ガメラシリーズはめっちゃすき。
『邪神覚醒』はラスト(はマジでヤバイ(これを言い表すための語彙力が死ぬほどに好き))以外そうでもないんだけど、とにかくまぁ、『大怪獣空中決戦』と『レギオン襲来』は特撮怪獣映画の最高峰。ある意味では、樋口真嗣の最高峰と言い換えてもいい。シンゴジもいいけど、やはり爆発屋は爆発してなんぼであって、爆発を力に変えて戦う火の化身ガメラの演出は、最高だ。そんでもって、脚本はヘッドギアの伊藤和典。公開時から幾分時間が経ってから見直したときそれに気が付いて、やはりワシの人生は、ゆうきまさみに繋がっている! と確信するに至る。ちなみに、この伊藤和典という人は、『究極超人あ~る』の伊藤君(猫っぽい人)のモデルだ。
監督・金子修介、脚本・伊藤和則、劇伴・大谷幸、爆発・樋口真嗣という、この製作体制の『ガメラ』が名作にならないわけがなく、記事に於いても言及されている通り、平成ガメラシリーズは、日本の怪獣映画が子供向けの娯楽映画からその歩みを一歩進めて、『SF映画』として脱皮した瞬間でもあろうと思う。
個人的に残念であるのは、その役割を『ゴジラ』が担えなかったことだろうか。
先にも述べたように、私は84年版ゴジラが日本怪獣映画の最高峰の一つとして聳え立っていると個人的に信じているのであるが、この『84年版』というのは、初期のシリーズにおいて、一旦は人類の(子供の)味方にまでその存在を堕したゴジラが、ゴジラという作品そのものの原点に立ち返り、原子力によってもたらされる恐怖の災厄として設定しなおされたリブート作品だ。
しかしながら。
愛されゴジラと化した原子力の怪獣を、災害としてのゴジラ、恐怖の対象としてのゴジラに再設定するといいつつも、制作側が持っていた『子供向け映画』という意識は抜けきらず、社会派の作りと称しながらも、スーパーXのような架空の兵器が登場してしまうなど、大人が見て楽しむという面は、限定的なものとならざるを得なかった。
それでも84年版ゴジラは、撮影技術の進化や制作側の努力によって、それが子供だましではない映画作品となりうることを示せたのは事実であるし、それまで子供向けという性格しか持ちえないと思われていた『怪獣映画』が、大人が楽しむのにも問題ないと思わせる、重要な転換点となった作品であることは間違いない。
平成ガメラ三部作は間違いなく、この84年版『ゴジラ』の流れ、目指そうとした方向、その延長上にある作品群だと思う。
設定には怪獣・SF・オカルトを絶妙なレベルで混ぜ合わせる明確なフィクションでありながら、登場する勢力や機器・兵器・乗り物などはすべて現実に即したもので賄うことを徹底し、怪獣という対象に、社会がどうリアクションするのかというのを、それまでの怪獣作品よりも一段高いレベルでシミュレーションすることに成功していた。
これは84年版ゴジラも志向したことではあるのだが、設定面においても物語面においても詰めが甘く、コントロール不能の自然災害に社会がどう向き合うのかという災害シミュレーションという視点で観た場合にも、いささかリアリティを欠いたと思わざるを得ない。
映画を観ている観客、視聴者に「マジでゴジラが現れたら、日本はこうなるかもなぁ」と思わせるシーンは、ぶっちゃけ、あんまりない。登場人物たちの対応や行動・仕草は、まだ初期のシリーズのノリを引きずって、大仰で劇的な演出に終始する。
フィクションの映画には、『リアル』や『真実』は必要ないが、それを観ている間だけでも、それが「本当にあるかもしれない」と思わせる『リアリティ』は必要だと思う。
昭和ゴジラシリーズは、そのリアリティを感じさせた初代『ゴジラ』から始まったのにもかかわらず、リアルもリアリティもゼロのキャラクター映画になってしまったことで、一旦はその展開を終了せざるを得なくなった。そのため84年版ゴジラは、それを回復するために様々な演出面での改革を取り入れようと努力したものの、しかして先に述べたような玩具的な演出を取り除くことができず、リアリティの追求には、その徹底を欠いてしまった。
徹底を欠くというよりも、リアリティの正面をどこに置き、それに対して物語の要素を正しく配置、設定することができなかった、とでも言おうか。その表れが、玩具的ギミックであるスーパーXやメーサー戦車(レーザービーム車)の登場になる。
平成ガメラが素晴らしかったことは、この点にある。
それは、怪獣映画に必要な『リアリティ』を、正しく設定できていたということ。
怪獣映画というものは、よくよく考えなくても分かる通り、100%フィクションであることが確定しているジャンルだ。観客は、それが『嘘』であるという前提の下に作品を観るわけだが、それに甘えた結果が陳腐な人形劇になってしまった『昭和特撮怪獣』の失敗だった。
正直な話、ジェットジャガーやメカゴジラでは、作っている方は映画に真剣なつもりでも、観ている方は子供とお遊戯会を観ているという域を出ない。
そこからの脱却を志向するなら、映画としてフィクションでありながらも、劇中においてはノンフィクションであるということの徹底が必要だったわけだが、平成ガメラはこれが上手かった。
84年版ゴジラが失敗し、平成ガメラが成功した違い。
それについてはいくつか要素がある。
これをガメラ側で示すと、まずは、登場人物の範囲とその配役が適切であるという点。
平成ガメラでは、三部作通じて、物語に必要な人物、事態が推移する最前線にいるキャラクターだけがフューチャーされる。怪獣の登場に社会は慌てふためき、様々な思惑は蠢くが、人間的な視点は、一貫して下から上を見上げる位置(つまり、巨大怪獣を見上げる人々の目線)に固定され、怪獣に翻弄される市井側の人々の物語という一線が保持された。
またその役に配されているのが、今や大御所・ベテラン・実力派と言われるかつての若手実力派俳優陣。その中でもセガールの娘や蛍雪次郎の採用は、硬軟散りばめた才能たちの中でも、面白い判断だったと思われる。
(これを真逆にしたのが「シン・ゴジラ」。シンゴジは一貫して、災害を上から見つめる人々――政治側の人たちを描いていて、配役はすべて有名俳優で固定し、人数の多さと関係性の複雑さを『見覚えのある顔』というイメージ戦略で補った。監督は、平成ガメラで爆発屋をやった樋口真嗣)
次に、実在の施設の取り扱い。
ゴジラなどでは、実在の建造物を登場させて、それをゴジラがぶっ壊すという名物シーンが人気の火付けに貢献したが、平成ガメラでは、これをただぶっ壊すだけではなくて、物語の重要な場面の背景として活用することで、怪獣がいる世界という非現実的な状況を、現実にはこうなるかもしれないというリアリティに転換することに成功した。
たとえば、『大怪獣空中決戦』では、姫神島という架空の島から飛び立ったギャオス達を、当時出来立てホヤホヤの福岡ドームにおびき寄せて自衛隊が駆除するというシーンがある。これはゴジラであるなら、ゴジラが福岡ドームをぶっ壊すシーンになるわけだけど、そこで強調されるのは非日常・非現実の世界となり、視聴者の現実とは乖離を生んでしまう。しかしそれら施設を、劇中の人物たちが活用し、非現実の存在である怪獣がその風景に溶け込むこんでいくことによって、映画の世界が、視聴者の世界に近づいていくことになる。
これはゴジラの演出との対比として生み出されたものであると容易に想像がつくが、怪獣映画のお約束から脱却することを志したことで生まれたこの歩み寄りのリアリティは、製作陣の勝利であるとも言える。
そして最も大きかったのは、自衛隊や海上保安庁が、それそのものの組織として初めて登場した怪獣特撮映画という点だ。
繰り返し述べてきているが、ゴジラから始まる怪獣特撮の重要なテーマの一つに、『怪獣という存在に翻弄される人間』というものがある。それは、人間の横暴に対する自然からの復讐であったり、ご先祖様からの問題先送りのツケ払いなど、様々な形をとりながらも、一貫して、抗いえない圧倒的な暴力としての怪獣に対して、人間はただ、やってきてしまったそれらが、幸運にも己の命を取らぬうち、この場を立ち去ってくれるのを待つしかないという描写に帰結する。
そんな非力な人間の代わりに戦ったのは、怪獣だった。
全てとは言わないが、ゴジラ以降のほとんどの怪獣映画において、怪獣と戦うのは人間ではなく、怪獣であるし、怪獣に勝つのも怪獣である。
怪獣映画は、人間と怪獣の関係を描いてきてはいたが、人間がそれと正しく戦い、正しく抗うことをよしとしてはいなかった。なぜなら、大自然の猛威としての結果、大災害の義獣化が怪獣であるというのなら、人間がそれに勝利することは、どれだけ時代が進んでもありえないことだからだ。
特撮怪獣映画というものは、怪獣という圧倒的な存在と人類の戦いという部分を作品の骨格に据えながらも、成り立ちに起因する固定観念によって、人間の勝利を許さなかったジャンルでもある。勝利を許さないばかりか、抵抗すらも無意味とする時代が、昭和の中期からは続くのだ。
しかしこれは、本当なら間違っている。
人間の文明というものは、有史以来、大自然と戦い続けてきたのである。大地を拓き、治水をし、港を整え、山を掘り、そこを人類の住処として整えてきた歴史が、つまりは人間の世界だ。その過程で、人々を飲む込み大海が、暴れ狂う大河が、渇える大空が、恐ろしき山々が、畏れの感情を引き起こし、それらとの調和を考える道筋となったわけで、人間はいつも大自然には抗い続けていたし、それと戦うことを諦めなかった。だからこそ、今の社会はある。
ゴジラを生み出したのは、人間の持つ業であるかもしれないが、だからと言って人間は怪獣に勝つことを諦めてはいけないのだ。それが、自然と闘い続けることによって調和してきた人間のあるべき姿勢だ。人間は、大自然・大災害の義獣化である怪獣との戦いを諦めてはいけないし、それと戦うことを、隠してもいけない。その戦いの過程こそが、人類文明の発展だったのだから。
しかし日本の怪獣映画は、長年の間、これを避けてきた。戦う描写自体は多くあるものの、怪獣に対する抵抗勢力は、あくまでも蹂躙される存在として、物語の添えものにされてきただけだった。
圧倒的な怪獣の存在感を示すために、軍隊ですらやられる大怪獣という演出をとるのは当然のことだとも思けど、一方で、玩具の戦車が、幼児が玩具を蹴とばすようにして蹴散らされるという光景は、それを観ている方としては、特撮という夢から醒めてしまう一因にもなっていた。これは、ミニチュアセットのクオリティが問題なのではなく、怪獣の映画として、そのミニチュアの周辺にもあったはずのリアリティの追求が、おろそかにされていたということだ。
それまで、人間側の抵抗勢力が、自衛隊っぽい軍隊っぽいくらいの体裁で登場し、怪獣たちの悠々とした所作の結果として、なんとなく成すすべを失ってきたその『自衛隊っぽい』『軍隊っぽい』人々は、平成ガメラ三部作から明確に『自衛隊』『海上保安庁』として登場する。これは平成ガメラ撮影開始前に、自衛隊が広報規約の変更を行ったことも理由として大きいので、それをして以前の『っぽい人たち』が戦うしかなかった特撮怪獣作品を非難することはできない。しかしそれでも、自衛隊と海上保安庁の登場によって、社会の側から特撮が欲したリアリティに歩み寄ってくれたことは事実であり、それによって平成ガメラの完成度が高まったことは間違いない。
また、奪われていた名前を取り戻した(笑)ことは、リアリティの補強以外にも、大事な効果をもたらした。
名もなき抵抗勢力だった人たちは、自衛隊と海上保安庁としてのアイデンティティを得たことによって、ある程度には怪獣と互するだけの戦う力を得ることにもなった。
平成ガメラにおいてそれは顕著で、圧倒的な巨大怪獣には負けるものの、一方で、幼生ギャオスや兵隊レギオンなどとは真っ向から戦うことが可能になって、より積極的に民間人を守ることが可能になる。まるで、真名を取り戻した英霊たちのようでもあるが、実際、自衛隊・海上保安庁が怪獣映画世界に登場し、巨大な怪獣に対して敗北することは免れ得ないとしても、そこにいる市民を守ることはあきらめない姿を見せたことは、ただの荒唐無稽なおとぎ話に、圧倒的なリアリティを付け加えるに十分だった。
このように、フィクションとしてのリアリティを確保した平成ガメラは、それに成功したことによって、さらにはドラマ性が上がることにもなった。不必要なものがほとんどない、我々の知っている世界とよく似た平成ガメラの空を、大怪獣たちが飛んでいるという没入感は、それまでぼんやりしていた怪獣映画の世界を観る場合の解像度を上げることにも繋がった。
物語の中でガメラは、人間がその眠りから呼び覚ました結果、人間を捕食対象の一つとするギャオスに対するカウンターとして登場したように描かれる。一見すると、ヒーローのようなキャラクター性を持っているかのように感じるが、一方、ガメラの活動と人類の生活領域が重なる場合、ガメラは人間の存在をまったく意に介さずに行動する。しかしそれでも、ガメラは登場人物の一人と明らかに交感している場面があり、ガメラはサイズがデカい生き物なだけで、人間側に立つ怪獣であるはずだ、と画面の前の視聴者は思い続けるのだ。しかしその後も、ガメラが人間世界を庇うそぶりはなく、怪獣撃滅にのみ専心する大怪獣の激戦によって、都市の被害は拡大の一途をたどる。
怪獣映画がリアリティとともに獲得したシンプルさが、ここで光るようになる。
一連の流れは、まったく余計な感覚なく、スクリーンの前、画面の前にいる視聴者に、事実としてダイレクトに伝わってくる。そこにもたらされるのは、安心感でも虚無感でも絶望感でもなく、ガメラと人間のかかわりあいにおける、うっすらとした不安感という怪獣映画としての『新感覚』だった。
正義の味方ゴジラであっても、大災害の象徴としてのゴジラであっても、そこにあるのは、頼もしさや恐怖といった、それまでの怪獣映画では当然あった感覚なんだけど、平成ガメラシリーズに至っては、ガメラと人間の関係は、物語の解像度が上がってクリアになった分だけ、不安定になっていく。
平成ガメラの『大怪獣空中決戦』では、
『ガメラは人間の味方なのか?』
という映画序盤の登場人物たちと観客が抱いていた疑問は、映画が終わるころには、
『ガメラは本当に、人間の味方なんだろうか?』
という、同じようで微妙に異なった不安へと形を変える。
そして、二作目の『レギオン襲来』では、怪獣と少女の交感に使われていた勾玉が割れ、浅黄(セガールの娘)がガメラとの断絶を感じるところで、この疑問がさらに増加し、そして、スクリーンの中の人々と外の人々が、同じ不安を共有していることが明示される。
あなたの感じている不安は正しい、というメッセージとともに、それが作品に対するさらなる没入感の入り口ともなる。
観客は、悪の怪獣が怖いのでもなければ、巨大怪獣が怖いのでもない。目の前で明らかに『何かを守って戦うガメラ』という存在が、段々と『何を守るために戦っている』のか、わからなくなっていくことに、少なからぬ不安を感じていく。「あれは、本当に人間を守ろうとしているのだろうか?」という、その不信にも似た感情が、心の中に滓となって溜まっていきその嵩を増すことで、さらなる不安を感じ、人間とガメラの関係が、実は不安定な土台に立っているということを自然な流れで自覚する。
ここまでで、ガメラに感じる漠然とした不信感が、制作側の意図した演出であることがわかる。こういう部分を、観客や視聴者が感じ取れるということ自体が、作品の作りが上手いことの証明であり、ドラマ性の高さという評価につながる。
それを成したのはつまり、観客に余計な作為を感じさせないリアリティ設定の妙なのだ。
84年版ゴジラは、怪獣映画の方向性の変化を促した傑作ではあるけど、変化の時期の黎明の作品だったことは否めない。さらに、目指していたことが原点回帰である分仕方なかったとはいえ、新時代のゴジラを志向するのなら、それなりに新しい作品の方向性模索すべきだったと思う。というか、足りなかったのは、平成ガメラが丹念に整えたこういう『仕掛け』の類だったんだと思う。
この仕掛けは、作劇のテクニックといわれてしまえばそれまでだけど、怪獣映画にパラダイムシフトをもたらしたことは確実で、そのジャンルが『怪獣』や『モンスターパニック』ではなく、『SF』として成り立つ可能性を示したことは、明らかだった。
ゴジラにこれができなかった理由は、明らかではある。
つまり、ファン層の厚みの違い。
ゴジラとガメラには、人気に圧倒的な差があった。
知名度のわりに、映画作品そのものが少なく、怪獣として固まったキャラクター性を有していなかったガメラは、80年代で既に文化として言及されるほどの『ゴジラ』とは、比べ物にならないほど人気も知名度も低かった。
正直、平成ガメラの公開が予告されるまで、ガメラの存在自体を忘れていた人たちも多いんじゃないかと思う。かくいうワシも、幼いころに『大悪獣ギロン』をヘビロテするという過去がなかったから、まったく知らなかったはずだし。
邪推すると、ゴジラというのは作品にはおそらく、制作や配給会社に作品そのものへ超強烈に思い入れを持った人がいて、それらが己の愛を発揮してしまい、現場に「ゴジラとはかくあるべし」の手枷足枷をかけ続けていた部分が、あるんじゃないかと思うんだよね。それはまた、映画を楽しむファンの側にも、当然ある。『私のゴジラ』という思い出が強すぎて、それが新しくなることを許さなかった風潮がなかったと果たして、当時のゴジラファンたちは言えるだろうか。
ワシは言えるぞ。当時まだ〔 自己検閲に寄り消去 〕歳だったしな。
逆にガメラは、一時はゴジラに負けて消え去った怪獣であったために、そういうしがらみがなかったんじゃないかと思う。
『84年版ゴジラ&次作ビオランテ』と平成ガメラシリーズを比べたときに感じる、徹底的な革新性のあるなしという違いは、そういう部分も無きにしも非ずだよね。
なんにしろ、平成ガメラが怪獣映画にもたらした『カイジュウからの独立』というムーブメントは、後の新ハリウッド版ゴジラを経て、日本にも『シン・ゴジラ』として帰ってくるわけだから、本当にエポックメイキングなシリーズだと思う。
ただどうなんだろうなぁ。
ネットフリックスのガメラが、なんか『シンギュラポイント』とか、パシフィックリムのアニメスピンオフみたいなのになったとしたら、ちょっとがっかりするかなぁ。
どっちも好きだけど。
でも、ガメラの配信はじまったら、また契約するかもって点だけは変わらん。
【 Forhill - Return(Rework) - 】