2022年8月31日水曜日

【小説】蒼赫のグラシエール②

「我が方、不利……といったところか」
 背後から、ふいに声がかかった。
 聞き知った声に、その姿を確認するまでもなく、ドーソンは、おおきく退いて場所を譲った。
「あれが『不利』などというものではないのは、俺よりも叔父貴の方がわかっていることだろ」
 愉快そうに言って腕を組むと、叔父貴と呼ばれた男――アントン・ウェルナーが、傭兵団の長に代わって城壁の最前に立って戦場を見渡した。
 うつくしいシルクホワイトの髪を総髪にまとめ、抑え目のワインレッドに染められたウール地の三つ揃いを、かっちりと着こなした紳士然とした男だった。
 筋肉で武装しているような、いかにも戦士といった風貌のドーソンと比べれば、若干の細身ではあったが、肩口から足元までを、流れ落ちるように寄り添うスーツの流麗な仕立ては、彼が一介の傭兵隊長とは立場を異にするものであることを示していた。
 それもそのはずで、彼はこの街の市長だった。
 顔を合わせるのは、ドーソンが一族の勘気を被ってパリセードを離れざるを得なくなった昨年の春以来のことであった。
「よく来てくれた。お前の顔をまた見れて嬉しいよ」
「そう言ってもらえて安心するぜ」
 二人は、それほど血縁関係のある間柄というわけでもなかった。
 しかし二人の出自であるブリューゲル大公家とウェルナー男爵家の先々代同士が、ここパリセードで轡を並べて戦ったことからはじまる浅からぬ交流があり、その縁によって知り合った。
 アントンの父である人から、ウェルナー家では、男女問わず嫡位にあるものが行儀見習いとしてブリューゲル家に遣わされる。貴族としての礼節を学ぶと言えば、ありがちな話ではあるが、アントンが『習った』のは、貴族としての礼儀作法はもとより、戦場において武器や馬を巧みに扱うことと、敵を効率よく殺すための業も含めてのことだった。
 そのアントンの行儀見習いの最中に、二人は出会った。
 性格面においては、ほとんどと言っていいくらい真逆ではあったが、どういうわけか、初対面からウマが合った。
 それからずっと彼らにとっては家柄などは些末なことで、歳の差だけがお互いを隔てる気の置けない間柄だった。
「相変わらず、それで寒くねぇのか、叔父貴よ」
 わかっていながら冗談含みでそう訊いた。
 この時期における挨拶のようなものであった。
「ヒゲのない分、私の方が寒く見えるだろうな」
「それだけかぁ?」
 防寒用の下着を何枚も重ね着し、さらに厚手のコートを羽織ってこの場に立つドーソンからみれば、アントンのかっこうは何も着ていないのと同じだった。寒さを防ぐのに役に立つのは、首元を覆うあつぼったい生地で織られたクリーム色のタイだけだ。
「この程度では、寒いとは言えん。お前も知っている通り、ここの寒さは、年が明けてから本番だからな」
 盆地の底に位置するパリセードの冬は、極まれば全てのものが乾きながら凍り付くと言われるほどに厳しい。今はまだ、冬としては北風に乗る序章の調べが聞こえてきたという程度のものでしかない。
「わかっちゃいるけどよ。俺は、その……冬は、あんまり得意じゃなかったからよ――」
「冬ごもりしなければならないからな、『大熊』のドーソンとしては」
「そのことについては、その――」
「私は、気にしていないよ。この街は、避暑もできなければ、冬の楽しみがある場所と言うわけでもない。戦もなく金も稼げない厳冬期に、わざわざ越冬を目的として足を運んでくれるのは、お前の傭兵団くらいのものだからな。そもそも、ドロシー様の御勘気にさえ触れなければ、わざわざ咎めるようなことでもなかった」
 ブリューゲル家の偉大なる祖母ドロシーの名前をわざとらしく出され、勘弁してくれと呟きながら、ドーソンはアントンの隣に進み出た。
 わざとらしく神妙な面持ちを作りながら、「これからの戦況を、叔父貴はいかに見る」と訊いた。
「そういえば、マドレーヌ嬢は、来春までで行儀見習いが終わるのだったな」
「叔父貴ぃ!」
「隠す必要はないと言っているんだ。私は、お前のそういう一途なところが好きだ。そして、この期にお前が来てくれたことに、私と私の一族、そして――この街は、感謝しなければならないからな」
「……? それは、どういう――」