2022年8月27日土曜日

【小説】鷹のナサナエル①

 セルナンローズにあるこの石造りの素朴な教会は、修道士たちによって造られた修道院であった。

 地域に唯一であるこの修道院では、今は片手ほどの修道士たちと小間使いの少年がひとり暮らしているだけだったが、最盛期には二十人近くの行者が、俗世から離れ、信仰をもとにした共同生活を送っていたこともある。

 近くに村落の類はなく、かたわらを下る小川のせせらぎのほかには、荒れ果てた大地を渡る風の音を聞くばかりという場所だった。

 この寂しい大地で粛々と生活する彼らは、コピト派と呼ばれる宗派に属する修道士たちで、広義では異端派とみなされる人々だ。

 しかし異端派と言っても、その名にもなっているコピト地域に最初に進出した修道士たちを礎にしているというだけであって、正統派と呼ばれる主流派と宗教的対立をしているわけではなかった。

 なにより、院長は代々、正統派からコピト地域における大司教の位を与えられているし、末席ではあるが公会議にも出席を許されていて、発議に関する決裁権(賛否を問われた場合に挙手する権利)も持っていたので、どちらかといえば正統派内の一分派だと言える。

 ただしこれは、歴史的な経緯からそうとされているだけで、公会議においてコピト大司教が影響力を持っているかと問われれば、「それはない」と答えるしかない。正統派に属する大半の司教、大司教たちは「コピトの地には正統派の修道院はない。しかしコピトの地に修道院を開設する予定も必要もない」という、ある種、透明な態度を貫いていた。

 あえて俗世と交わり、権力者や街の人々と結びつくことによって、正統派の宗教的権威を高めてきたという自負のある彼らからすれば、人里離れた荒野で自分自身の信仰のみを大事にして生きてきた彼らなどは、自分達が苦労して育て収穫した民心という名の果実を、一方的にむさぼる卑怯ものとしか思えなかった。

 しかしそういう彼らであるからこそ、信仰にのみ依って生きるコピト派の修道士たちを、全き清貧の使徒であると評価することもできたのである。自分たちの苦労と、そういう彼らの修験の道を、己の中にある信仰心を軸にして比べた時に、彼らの天秤はちょうど釣り合ってしまうのだ。
 
 釣り合った天秤の影響は、正統派内において、コピト派の存在をなかったこととして塗り潰すという行為に現れた。
 つまり、コピト派とコピト大司教という存在は、正統派内では禁じられた話題なのである。

「しかしそのおかげで我々は、正統派の指導者たちがやっているような売僧や荘園の経営などという世俗の欲にまみれることなく、ただ信仰にこの身をゆだね、我が神の御許に呼ばれるその日を、ひたすらに待ちわびることができるというものなのです」
 
 強烈な朝陽が昇るコピトの荒野を前にしてひざまずき、他の誰でもない、己自身に言い聞かせるようにしてそう言った二十五代目のコピト大司教ドナテウスの言葉に、崩れかけた塀の内側で放し飼いにしていた鶏が、小石をついばむのをやめて、不思議そうに首を傾げた。

 それはただ単に、その鶏の習性であったはずだが、行き詰まる修道院の経営を強がって見せたドナテウスに対して、無機質かつ無垢な瞳を向けてくる鶏の眼差しは、「果たして、本当にそれだけなのか? 彼らは本当に、全き信仰の徒ではないのか? そしてお前は、本当に信仰者であるのか?」と、問いかけているようであった。
 
 ドナテウスは、その問いかけに対して、確かな答えをだすことができなかった。
 この身を神の信仰に捧げることを誓った修道士とはいえ、その身肉は人のモノであることは間違いない。

 人が獣の理に生きることができない以上、彼らほどの神への献身を人が行えるのだろうか。
 いや、できまい。
 
 朝起きてはいまだ眠りこける者たちのために時を告げ、腹が空いたとて誰にも不平を漏らさず大地をついばみ、他者の糧となるための卵を産んで、そして最後は己の命すらをも捧げて果てる。この鶏のように、ひたすら無心に生きることができたなら、私が神のみ国に呼ばれることは確実だろう。

 彼の信仰は、鶏の生き方ひとつにすら、及ばないのだ。
 そこに、己の信仰の敗北を認めざるを得ない。

 彼のように生きることのできない私は、このコピトの地で、その道を歩む者として、本当にふさわしいのだろうか。
 我々――いや、私自身が、今立たされているこの苦境――神の試しに、正しい答えは出せるのだろうか。
 いや――。
 父なる神よ――。
 私の答えは、正しかったのでしょうか。
 このような祈りを“今”捧げている私は、このセルナンローズ修道院を導く者として、本当にふさわしいのでしょうか。
 あぁ、神よ――どうか、このように愚かな迷い人であるわたしをお見捨てにならないでください。

「院長先生は、頑張っておられると思います!」

 振り向くと、ドナテウスの視線の先に、まぶしいばかりの朝陽に亜麻色の髪を照らし出された少年が立っていた。

  哀れにも地上をさまよう信仰の子羊となっていた大司教ドナテウスの言葉に応えたのは、形而上的世界に住まう神ではなく、この修道院に小間使いとして籍を置く、メルヴィン・ローエンツ少年であった。

 彼は数か月前に、ここセルナンローズ修道院へ預けられたばかりの子供だった。洗礼は赤子の頃に済ませてあるとはいうが、いまだ扱いとしては見習いで、当然ながら、剃髪もすんでいない。

 体格はそれほどよくはなく、全体的に同じ年齢の子たちと比べても若干の細身であり、彼に与えた修道服のズボンの裾は引きずられ、すでにボロボロにほつれていた。このような若年者の受け入れは想定されていなかったから、彼に合う僧服などもともとなかったのだ。数えで十になったばかりという少年では、致し方のないこととするしかない。

 普通ならば、この過酷なコピト荒野にある修道院が引き受けてよい子供ではなかった。

 しかし元々、彼のおかれていた境遇は、ここよりもまだマシという程度の場所で、しかもその場所を、新たにできた弟に譲るため「どうしても、私を預かっていただきたいのです!」と、たどたどしい言い方で本人に言われては、引き取らないわけにもいかなかった。

 本人は至って真面目な性格をしていて、この数か月も、小間使いとしてよく働いているので、歳が相応になれば、立派な修道士として信仰に生きることも可能だろう。そして、ゆくゆくは大司教の位を継いでほしい。

 メルヴィンは、すでにしてそう思わせるに足る、よい子供だった。

 ドナテウスがあらためてメルヴィンを見ると、その姿は高くなってきた太陽の光に包まれて、まるで神の祝福を一心に浴びているかのような輝きを放っていた。小間使いの少年はそこに立ったまま、その足元に寄ってきた鶏を、あまりがちな袖をまくって抱え上げ、ぎゅっと抱きしめながら、子供らしい小さく薄い唇をふるわせて、懸命に言葉を継いだ。

「院長先生が、毎日の感謝のお祈りを欠かさず、聖書をよく読み、日課をこなして一所懸命であることは、ボクにだってわかります! だから、神様だってちゃんと院長先生のがんばっているところを見てくれていると思います!」

 それは、迷えるドナテウスにとって、まるで神からの返答であった。

 このひと月というもの、果たして自分自身の信仰が試されているのを感じていた。そして、その神の試しに、自分自身が出した答えが本当に正しかったのか、そしてそれが、神の御心に適うものなのかと常に自問自答し、そして、深き所にあり、糸高き場所におわすと方との対話を続けていたのだった。
 
 しかしドナテウスの信じる神は、容易にその答えを与えようとはしてくれなかった。彼を苦しみの中に突き落とし、引き上げてはまた放り投げ、彼の信仰心を常に試そうと苦難を与えてきた。

 それに耐えきった今日。

 神は、メルヴィンという少年を通して、彼の信仰に応答した。
 
 ドナテウスは立ち上がり、にわとりを大事そうに抱える少年を抱きしめた。

「院長先生……?」
「あぁ、神よ……感謝します」
 
 ドナテウスは少年の頭に口づけし、陽の光に照らされて豪奢な黄金の輝きに震える亜麻色の髪を幾度もなでつけた。

「ありがとう、メルヴィン。お前がいてくれて本当によかった。お前のような子供が、この厳しいコピトの地にやって来たこと自体が、この国や、人々の抱える罪の結果なのだと、かつて悲しんだこともありはしたが、そうではなかったのだな。お前こそが、我が神からの言伝だった」

 抱きしめられたメルヴィンは、ドナテウスが何を言いたいのかよくわからなかったが、その温もりに、大司教であり院長先生であるドナテウスが本心からそう言っているのを感じ取り、自分の言葉で彼を励ますことができたというのが、うれしくなった。

 鶏を抱いた両の腕にギュっと力が入り、苦しそうに鳴いた。

 その時、ドナテウスがその小さな頭を我が胸に抱える向こうから、一台の馬車がやってくるのが見えた。

 装飾は至って控えめなシンプルなつくりではあったが、黒塗りの客車は太陽の光を受けて、その深みのある光沢をいっそうに湛え、ガラスでできた窓の向こうに映る赤と金色で統一された内装と相まって、それがなまなかではない人物の所有であることをうかがわせた。

 修道院の入り口を表している二本の石柱の前で、こちらを伺うように止まると、御者の席にいた男が、こちらに向かって手を振った。

 すると、修道院の建物の中から、数人の修道士たちが現れて、ドナテウスの方を見た。

 ゆっくりと頷く院長の目に、すでに躊躇いも迷いもなくなっていたのを見ると、彼らはいくつかの荷物を抱えてその幌馬車に向かい、たどり着いては、その御者と何ごとかを囁き合い始めた。
 
それを見たコピト大司教ドナテウスは、力強く立ち上がると、華奢な少年の体を抱き上げる。

「わぁ! 院長先生!?」

 その懐中に鶏を抱えながら、ドナテウスの両腕にすっぽりと納まったこの少年は、まるで羽毛のつまった布団のように軽かった。

 メルヴィンの体格は、ここに来てからの数か月でも、まったく成長していく気配はなかった。当然だろう。大人であっても辛い修験の場であるここは、少年が暮らすには過酷にすぎるというものだった。

 それでもこの子には、人としての温もりだけはある。
 何が起こっているのか、よくわかっていない少年の額に、ドナテウスは自らの額を合わせ、その温もりを確かめた。

「メルヴィン・ローエンツ。君の言葉によって、私は神の御意思を賜った。君は今日、信仰の旅に出るのだ」
「信仰の……たび?」
「そうだ。私たちのために、そして私たちの神のために」

 ドナテウスが、幌馬車に向かって歩き出すと、何事か起こっているのかわからないメルヴィンの目に、ただ事ではない様子の馬車が目に入る。

 コピトの修道士たちのような自ら進んで行う苦行ではなく、シンプルに貧乏暮らしを営んできた経歴を持つ十歳の子供の目にも、その馬車が普通ではないことは理解できた。

「どなたか貴族の方が、お越しになったんですか?」

 おとなの腕に支えられ、暖かな温もりを感じる背中に、わずかに薄ら寒い感覚を覚え、鶏を抱きしめた腕ごとその身がすくむと、それを感じ取ったドナテウスの両腕に、わずかに力が込められた。

 少年の疑問には答えず、ドナテウスが数人の修道士たちがつくった列のもとまで歩みを進めると、馬車のたもとで彼の来るのを待っていた御者が荒野に住まう大司教を一瞥した。そして、その腕に抱えられた少年と鶏とを見比べて「どちらが我が主の求める代価で?」とおどけて尋ねた。
 
 尋ねられた方の大司教は、少年の抱えた無垢な鳥類も修道院の生活を支える大切な財産であることを思い出したが、これ以降、そのような心配が些末なことになるのだと思い至ると、少年の行く末に、この全き獣の信仰者がついて行っても良いような気がして、「どちらも」とだけ短く応えてうなずいた。

 御者は、それ以上は何も聞かず、客車のドアを開いた。

 すでに修道士たちによって積み込まれていた荷物は、メルヴィンがこの修道院に来てから与えられた衣服や、日用の道具であった。座席の隅に収まってしまう程度のもので、大した量ではない。
 
 ドナテウスは抱えていた一人と一羽を、質の良いベルベットの敷き詰められた客車の中にゆっくりと降ろしてやった。
 
 まるであの空を行く雲の上に降り立ったかのようなふわふわとしたベルベットの足元に、どこか地の底へでも落下してしまうかのような錯覚を覚えたメルヴィンが、ひゃぁと声をあげ、ドナテウスの支えを求めてよろめいた。
 思わず抱きすくめたドナテウスの胸元にがっちりと受け止められながら、裸足にサンダルだったメルヴィンの足元を、毛足の長い滑らかなベルベットが優しくくすぐった。

 半年ほどとはいえ、生活を共にした少年――と、長年にわたり卵を提供し続けてくれた雌鶏――を抱き、ドナテウスは思わず涙を流した。

 その様子を見ていた修道士の一人が、こらえきれずに涙を流し、それを見られまいとして、袖口で顔を覆うと、他の者たちも同様にすすり泣き始める。
 
 修道士たちの悲しみが伝わったのか、ひとのよい御者の男も(そりゃぁ、そうだろうよ)とその目にわずかに涙を貯めて、鼻をすすりあげては帽子をぬいで胸に当てた。

「院長先生……?」
「いいかい、メルヴィン・ローレンツ」少年の顔をおこしてやって、ドナテウスはそのエメラルドの瞳をまっすぐに見据えた。「お前はこれから、クーフランの貴族のもとに渡ることになる。我らが名代としての仕事ではなく、ただあまねく万象を司る神の使いとして、その使命を果たすために」

 メルヴィンには、ドナテウスが何を言っているのかは、よくわからなかった。

 ただ一つわかることと言えば、これから自分は、誰かしら貴族のもとに行くことになるという、それくらいのことだった。

「これから、どのようなことがあっても、決して弱音を吐いてはいけないよ。短い間とはいえ、我らは、この修道院で寝食を共にし、信仰を支え合った仲間だ。この絆は、天上に我らが神がおわすかぎり、はるかとこしえまでも滅ぶことはないだろう」
「ど、どういうことですか、院長先生?」

 何を言っているかわからない。そういう疑問の言葉すら、口に出すのが難しいほどに混乱しているメルヴィンをしり目に、修道士たちのむせび泣く声が、他を憚ることなくその場に満ちた。

「大丈夫。我らは、神への信仰によって結ばれた、永遠の兄弟だ」

 そういうと、ドナテウスはメルヴィンの体を、客車の中へと優しく押しやった。
 茫然としているという表現さえ生ぬるく、なにが起きているのかをまったくわからいままのメルヴィンは、その扉が閉まるのをただ鶏とともに見つめ続けているだけだった。

 そして、もらい泣きしていた御者の男が、扉の外側から頑丈そうな錠前にカギをかけると、重そうな金属の音が鳴り響き、その中にある存在が、すでに修道院の者ではなくなったことを周囲に告げた。

 修道士たちにしてみれば、すでに肉親と同様の情で結ばれた相手との別れであろう。信仰という修験の道に生きる者たちにも、それを悲しむ心はあるか。人の好い御者は、独りそう合点して、修道士たちに深々と頭を下げると、馬車に乗り込み、そして、セルナンローズの修道院を発った。

 残された修道士たちの足元には、なにか、金属できた平たく丸いものがぎっしりと詰まった布袋が、山のように置かれていた。
 これでようやく、辛いだけの信仰生活から抜け出すことができるのだと思うと、これまでの厳しい修行の日々が、一気に報われたような気がして、彼らの頬を歓喜の涙が打った。

 そうして、少年を売り払った代価の山を嬉々として運び込む修道士たちをしり目に、コピトの大司教ドナテウスは、離れていく馬車の後ろ姿が、稜線の向こうに消えるまで立ち尽くしていた。

「我らは、もう限界だった……。荒野でこなす苦行で、この世の衆生が救われることなどありはしない。そう思いいたった時、ここで生活することの苦しさに耐え切れなくなった私を許してほしい。そこから抜け出すために、あえてこうするしかなかった私を、許してほしい。
 私にはこの荒野の生活しかなく、正統派の彼らのように、街の人々と共に生きていく手筈などがあるはずもなかったのだから……。
 メルヴィン、お前はまだ、剃髪もしていなければ献身の儀も行える年齢ではなかった。だから、我々のような罪深き大人たちの仲間入りもしてはいなかったのだから、これでよいのだ。我らが神も、お前を通して、私のしたことが間違っていないと、そう言ってくれたのだろう」

 ドナテウスは己が祈りの言葉を口ずさむように、この顛末の言い訳をしていることに、なんら恥ずかしさを覚えなかった。我らが神は、コピト派も正統派も、同じように平等に扱うばかりか、繫栄し、信仰を広めているのは、誰あろう、世俗にまみれる正統派の者たちに他ならない。

 荒野でひたすらに信仰を全うする我らの方が、神に求められていないのだ。
 これは、あるべき姿に還る努力なのである。

 馬車はもう、見えなくなっていた。
 あの少年の姿は、ここにはない。

「だからメルヴィン。願わくば、お前のこれからの人生にも、大いなる神の祝福があらんことを」

 こういうわけで、メルヴィン・ローレンツ少年は、『鷹のナサナエル』ことナサナエル・アンジー男爵のもとに売られていったのである。