2022年8月25日木曜日

【小説】蒼赫のグラシエール①

 それは、サレンディア王国の暦で、十二月も半ばを過ぎたころのことであった。
 パリセード市を囲んだ石造りの城壁の上に立った傭兵隊長ドーソン・ブリューゲルは、戦いの予兆に慄く己が身を凍てつく冬の空気に晒しながら、塊阜のごとき威容を誇る二体の鋼鉄の騎士――サレンディア王国では、それを重騎《ソルダルード》と呼ぶ――たちの、激しくぶつかり合う音を聞いていた。

 それらは一見して、重苦しい鎧兜を総身に纏った古風な騎士のようであったが、しかしてその姿は、荒れ果てた大地にまばらに生えた幾本かの喬木よりも抜きん出て大きく、まるで神話の時代に生きる巨人たちのようであった。

 暗緑色の分厚い装甲に身を包み、その身を覆わんばかりの大盾を左手に構えた巨人が、空いた手にある巨大な剣の柄を握りしめ、青空を突きぬかんばかりに振り上げた。目の前の相手――すなわちそれは、『敵』である――を屠らんがために振りかざした大剣が、空気を割って唸りをあげた。
 間髪を入れず、勢いついて振り下ろされたそれが、腹の底から響くような重音とともに乾土を割ってめり込むと、二キロも離れた場所にいるドーソンの元にまでその衝撃が届いた。ビリとした振動が頬をなで、衝撃のすさまじさを伝える激しい風が、城壁の上を駆け抜けていく。

 ほんのわずかの間があって、巨人の鉄靴が巻き上げた砂ぼこりが戦場を濛々と満たしていく。
 それで決着がついたわけではないことは、ドーソンの目にも明らかだった。
 舞い散る土のカーテンの向こうから、反攻の一撃が突き出された。油断なく構えられていた大楯が、その一撃を受け止めて、またも鈍い金属音と激しい空気の振動がまき散らされる。
 繰り広げられていたのは、まさに鋼鉄を身に纏う巨人たちの決闘であった。
 しかしそれは、神話の時代の話ではなく、神話の時代から今に続く、人の世の争いの手段の一つであった。
 敵の重騎が間髪を入れずに放った二撃めの勢いを殺しきれず、盾を持った巨人の後ろ足が大地にめり込み、のけぞるようにたたらを踏んだ。 

 その様子を見て、ドーソンは舌打ちした。
「誇りを捨てる覚悟がなければ、命を捨てざるを得ん相手だと、打ち合ってみてわからんのかよ」
 どこか自棄鉢に行った言葉が、宙を泳いで冬の空に流れていく。
 言葉を紡ぐとともに吐き出された息が白く染まり、西の向こう、はるか見渡す先に横たわるアナトリアの山々を霞ませた。
 久しく王国の歴史と共にある要塞都市パリセードは、ガリア平原の南の縁に位置していた。穏やかな気候に恵まれた大穀倉地帯は終わりをつげ、ここから先は、大陸でも有数の高峰を幾つも連ねるアナトリア山脈の東麓まで、草木もまばらな砂漠のごとき乾燥した大地が広がっていく。
 この周辺は、人の世に国家の概念が取り戻されてから此の方、王国と帝国と呼ばれる二大勢力の係争地となっていた。
 領土と誇りを賭けた二つの国の争いは、時に凄惨に、時に英雄的に語られて、時の流れに刻み付けられていた。幾度とない大戦争を繰り広げ、数え切れないほどに小競り合い、それはいつしか彼らにとって、当たり前の日常になっていた。
 そうであるから、このような光景を見るのは、ドーソンにはいつものことだった。

 ドーソンは、戦士だった。幾度とない戦場働きで鍛え上げられた、歴戦のベテランと呼んで差し支えないほどには。
 そして、小規模ではあるが、王国内で一、二を争う傭兵団を率いる長であり、『大熊』といえばブリューゲル家の七男ドーソンを指すという程度には、名の知れた公子でもあった。
 サレンディア人に特有の、白い頬に深く落ちくぼんだ眼窩が湛える双眸が、剣呑な光を帯びている。
 彼自身は、それほど抜きん出て大男というわけではなかったが、良く鍛えられた肉体と、何ごとにも動じない精神の充実によって、その通り名に恥じない偉丈夫といってよかった。その堂々たるしぐさに、怜悧な空気に揺れるフルビアードの顎髭の迫力が加わると、その姿は、まさに冬の大地を見渡して獲物をにらみつける大熊のごとき趣があった。
 大熊のドーソンはしかし、この時には何か、冷静さを失っているように見えた。
 苛立つように城壁を掴んでは、分厚い手袋に包まれた人差し指で、せわしなく叩き続けている。

 戦争の最前線を、丸く切り取るように囲んでうずたかく積みあげた古い矩形の城壁は、はるか古代からその戦いを眺め続けてきた由緒ある城壁であり、三千の兵と十人の騎士、そして、八千の市民を抱いて眠る囲郭の園の護りであった。
 その街パリセードが、彼の後ろで、不安と動揺に揺れている。
 埃にまみれたパリセードの乾いた風が、ドーソンの頬を斬るように吹きつけていく。ふきすさぶにあわせて徐々に肌のぬくもりは奪われて、彼を冷たい未来への予感で支配していく。レンガに触れる手袋の指先もかじかんで、痺れるような痛みが現れると、まるで、指先から命が吸われていくような錯覚を覚えた。

 ドーソンにとって、ここパリセードは、親戚筋にあたる貴族の治める地であり、職業柄、一時期は根城にして活動していたこともあって、縁は深い。この冬の厳しさも当然のこととしてわかっていたつもりであったが、今、彼を覆いつくすこの寒気は、尋常のものではなかった。防寒用のコートもしっかりと着込んでいるのに、あまりの寒さに凍えてしまいそうだった。
 これは自然のもたらす寒さではなく、この後に待つ暴力の予感ともいうべき悪寒であった。