2022年9月8日木曜日

【小説】ほしのうみにおよぐ 『大城仁晴』

 

 大城仁晴は、目が覚めた瞬間に確信した。

 来た――。
 ついに来た。
 これはあれだ。
 異世界転生というやつだ――。
 この世ならぬ場所へと旅だった魂の新たなる生まれ変わりの物語。
 その一遍に、ついに自らたどりついたのだ。

 本来であるならば、白々とした光を放つているだろう電灯が、黄ばんだカバーに縁どられ、仁晴の人生を黄昏色に染めてさえいなければ、そう思っていたに違いない。
 薄暗い室内に横たわった姿勢のままうずくまる仁晴を、まるで威圧するかのようにのっぺりとした壁たちがとりかこみ、霧がかったようにぼんやりとした天井が、押しつぶさんばかりに見下ろしていた。

 異世界転生など、あるわけがない。
 その現実に、仁晴が落胆する必要はなかった。
 なぜならば、どうせ現実の方が、仁晴の歩んだ人生に落胆しているのだ。
 こんなに自由ですばらしい『現実』を生きてきたのに、人並みに幸せになることもできなかったなんて、こいつはどうかしている。
 
 そう思っているに、違いない。
 なぜならば、現実はいつも、仁晴に対して優しかったから。
 そう思っているに、違いないのだ。 

 仁晴は、特別不幸な境遇に生まれた人間ではなかった。
 ごく普通の家庭に生まれ、ごく普通に生きていただけだった。
 彼は、平成の世において日本国のS県K市で生を受け、高校教育までをごく普通の成績で卒業した。
 以上、終り。
 大城仁晴という男を説明しようと努力するにあたり、その人生の大半を語ろうとすれば、このように清らを尽くした説明が必要になる。
 それくらいには、普通だった。

 ただちょっと。
 ただちょっと、大学に入るか入らないかの辺りで、躓いてしまっただけ。
 その躓いた道が、ちょっと坂道になっていただけ。
 それがもとでバランスを崩して転んでしまっただけ。
 転んだことがもとで、ちょっと膝を擦りむいただけ。。
 痛みを感じながら転んでいったその先が、奈落の底に繋がっているちょっとだけ深い穴だった。
 だけ。

 それだけ。
 
 たった一度の躓きが、普通だった仁晴の人生を、くだらないものにした。

 そのくだらない人生の道行きに、終りの時が近づいてきている。
 どういう終りが待っているのだろうか。
 ここまで来たら是非とも仁晴自身の言葉でそれを語るべきだったが、残念なことに、彼はいま、猿轡をされ、漁船のキャビンに転がっていた。
 ついでに、後ろ手に縛られ、膝を折り、丈夫な麻袋に突っ込まれて、ご丁寧にも首元のあたりをしっかりと紐のようもので縛られてもいたので、まるっきり体を動かすこともできなかったのだから、声が出せないくらいのことは、勘弁してほしかった。
 
 この芋虫以下の体たらくで、つぎの行き場を探すのは難しそうだった。
 このあとどうなるのだろうか。
 先ほど意識を取り戻してから、仁晴の周りには、なんとなく嗅いだ覚えのあるようなにおいが充満していた。
 人生のおわりがけに、そんなことどうでもいいと思うかもしれないが、どこか仁晴の心持は澄んでいて、終りに向かう時間にありながらも、その意識は明瞭だった。
 だから、辺りを包むこのこのキュンキュンとした青臭いリンゴの香りに、大豆のような生豆の甘さが混じったことを感じ取ると、それがコーヒー豆だということに気がついた。

 そうか――そうだったのか。
 仁晴を包むこの袋、これはコーヒー豆の麻袋だったのだ。
 わかってみると、実にいい気分だった。
 いい匂いのする豆は、いいコーヒーになる。
 これは、個人経営のカフェでバイトした経験上、間違いないことである。

 となれば、後の話は簡単だ。
 そう、こんなにいい匂いに包まれているのだから、このあと焙煎機にかけられるのは確定である。
 そうして仁晴は見事、人間の人生を終了して、コーヒー豆として第二の人生を歩むのでした。
 異世界になんか、行かなくていい。
 仁晴はこの後、煮だされて、なんだかよくわからない真っ黒な水としての生を送るのだ。

 ただそうなると、ひとつ問題があった。
 それは、仁晴がまだ『豆』ではないということだった。

 残念ながら彼は異世界転生をしていないために、普通の人間だった。
 人間であるはずだった。
 鏡などがないために、そうであると確認することは出来なかったが、感覚的には手はあるし足はある。ついでに声も出せないのだから猿轡もされているとなれば、これが豆に対する仕打ちだろうか。
 
 これは、仁晴がまだ人間だという証拠でもあった。
 焙煎用のコーヒー豆ではなく。
 手があって足があって、多分、目もついている。
 鼻も口も、あとは耳もまだあるはずだった。
 映画でよくあるような、拷問をされたわけでもなかったから、それらはまだついているはずだった。
 鏡はないから、感覚的にそうであると、思っているだけかもしれないが。
 匂いは嗅げたから、鼻はあると思いたい。
 
 しかし、自分自身でそうであるとは思っても、ただそう思い込んでいるだけ、という可能性もある。
 なぜなら、普通の人間であれば、コーヒー豆の麻袋に入れられて、漁船の床に転がされているわけがないからである。
 その意味において仁晴はもう、普通の人間とは言えなかった。
 
 しかし普通でなくなったというのなら、彼が既に豆であるという可能性も、無きにしも非ずなのではないだろうか。
 そうすると、随分と豆という存在を高等生物として扱う文化、文明圏にいることになるが、すくなくとも、彼が豆となる前に過ごしていた日本のS県に、コーヒーの生豆を縛りあげ猿轡をかまして麻袋に入れておく文化というものはなかったはずなので、今は、かなり独特の文化がある地方にきてしまったということになる。
 異世界転生などしなくても、このように価値観の違う文化を味わうことができれば、人生のあらたな展望が開けていくことは確実だった。

 漁船のキャビンに転がされてさえいなければ。
 生豆の淡い匂いを凌駕して、辺りに満ちる腐りかけた青魚の生臭さが、焙煎文化圏の彼方に向かって逃避し続ける仁晴の意識を、現実へと引き戻した。
 
 焙煎される可能性はなかった。
 これは、そういうものじゃない。
 既にこの麻袋は、豆を入れておく用途で使用されていた過去を捨てて久しく、いくつものどす黒い染みに薄汚れて、ぬらついてた。

 この生臭さは、本当に魚の生臭さなのだろうか。
 それに気がつくと、コーヒー豆の匂いはどこかに消え失せた。
 
 頭の片隅にだけ、ノイズのような残滓が積もる。
 目の前の景色が、霞んでいた。
 黄ばんだカバーに縁取られた電灯が、仁晴の視界を黄昏に染めている。

 異世界転生などが、あるわけがない。
 その現実に、落胆する必要はなかった。
 なぜならば、現実の方が仁晴に落胆しているに違いなかったからだ。
 
 どうして、そう思うのだろう。
 仁晴の人生が、現実ごときに落胆される程度のものだったとでもいうのだろうか。
 誰がそんなことを言っているのか。

 誰だったろうか。

 一片の疑問が頭の中をよぎっていったが、それに答えをくれる人は、今はいなかった。
 多分、意識を失う前にはいた。
 見張りの人がひとり。と言っても、この状況で逃げ出せる技術も気力もない仁晴の見張りなど、いてもいなくてもどうでもよい存在だった。
 それは、あの唐沢とか呼ばれていた男にとっても同じことで、社会にとってどうでもよい存在となった人間を縛りあげ、麻袋に詰めて漁船で海上まで運ぶ風習のある文化圏で生きているらしいチンピラ野郎は、この芋虫風情に堕していた仁晴など見張っていてもいなくてもどうでもよい存在だったに違いない。
 
 あの唐沢という男にとっては。
 いや、原沢?
 樺沢だったかもしれない。
 どうでもいいが。

 仁晴をこに運び込んできたころには、その辺の縁に腰かけていたはずだった。
 腰かけていたはずだった。
 仁晴は部屋を見渡した。
 縛り上げられて、自由にならない首を必死にめぐらして。

 室内は、目を覚ました時と同様に、のっぺりとした壁たちに囲まれていた。
 黄ばんだプラスチックのカバーが、時折に明滅しながら、部屋の中を照らしているのも、同じだった。

 何も変わらない……か?
 気を失う前の情景を、なんとなく思い出そうとする。
 そもそも、なんで気を失っていたのだったか。
 
 一所懸命に思い出そうとしたが、なんでそんなことを思い出すことに一所懸命にならなければならないのか。まったくバカバカしいことだった。

 仁晴がここでこうしていることに、元々、わけなどなかった。
 
 理由ならある。
 理由もなく借りた金を、なぜか返せなかったからだった。
 今でも覚えている。
 冬の寒い日で、切るように吹きつけていく風に当たるのが嫌だったから。
 目に入った消費者金融のATMのブースに、何とはなしに入ったのだ。
 白いすりガラスの向こうから、太陽の光がいっぱいに入ってくると、なんだかホッとしたような気になって、落ち着いた。
 ここに居れば、自らを取り巻く冷たい空気に怯えることもない。
 そんな気分にさせられた。

 その頃は、めずらしく家族ともめていた頃だったから、落ち着かない日々のなかで、あの時が止まったような空間は、仁晴の求めていた安らぎが充満しているような、それとも、周囲のみんなから冷たくあしらわれた悲しい人間である自分を、なぐさめ、優しさに包んでくれているかのような、温かみに満ちた空間だった。
 
 だから、限度額いっぱいまで借りてみたのだ。

 使うアテがあったわけではなく、ただ純粋に好奇心からだった。
 ただ一度、お金を引き出してみて、それをすぐさま全額振り込んでしまえばいいと思っていた。多少の手数料なんかどうでもいい。
 使うアテがあったわけではないんだけれど、ただ純粋に好奇心で借りたのだ。
 だからすぐ返せばいいんだ。

 なぁ大城仁晴ちゃんよ、このS湾の沖に幾つこのドラム缶が沈んでるか知ってる?

 そういえば、あの問いかけの答えを聞いていなかった。
 漠然と浮かんだその問いかけが、だれの言葉によるものだったのか、仁晴は思い出しあぐねた。
 あの樺沢だっただろうか。
 いや、唐沢だったか。
 原沢?

 原沢のほかに誰がいたっけ。
 大城仁晴がいた。
 それは私だ。

 純粋に好奇心からだった。
 見張りの原沢の姿が見えないのは、横臥する自分の後ろに彼がいるからなのではないか。
 そのことに気づいて、仁晴は麻袋と手枷によって身動きの取れない体を捩り、見ることのできない後方を確認しようと思った。
 後方を確認しようと思ったのは、そのような純粋な好奇心からであって、誰に唆されたわけでもない。
 いや、元々誰にも咎められるようなことではないし、誰から禁じられていたわけでもないのだから、仁晴がこの部屋における遺された一隅を確認しようとすることは、なんら問題のある行動ではなかった。
 
 彼にとって、それはごく当然の権利であるはずだった。
 小汚く、ぬらつく麻袋に入った仁晴は、いまや貨物同然である。
 いや、貨物だろう。
 彼が運搬用のずた袋に入れられているということは、仁晴はすでにお荷物なのだ。
 もちろん、この場合は社会のお荷物だった。

 仁晴のこれまでの人生は、とくに誰から見ても普通だった。
 普通だった人生が、普通であることをやめた後、彼は余りにもお荷物すぎた。
 どうお荷物だったのか、仁晴自身にはよくわからなかった。
 しかし彼の周りの人間は、仁晴と人間的な付き合いが深まると、みんな異口を揃えてこう言うのだ。

 もう疲れた。
 おまえマジで重すぎるよ。

 バスケットボールの選手のように異常なほどの高身長でもない。
 プロレスラーのようなガチムチの肥満体形をしていたわけでもない。
 これといって重量感のある生活をしてきたわけでもない仁晴には、理解の出来ない言葉だった。
 何が?
 どういう意味で?
 体格としては中肉というにも憚る程度で、存在するだけで空間が歪むほどの質量があるわけでもない仁晴と付き合うことが、

 疲れる。

 とは一体どういうことだろう。
 
 ましてや彼ら、彼女らに仁晴が触れたことすらないのに、どうしてこちらの重量感を把握しているのだろうか。

 彼は一度も、仁晴に体を触らせなかった。
 彼女は一度も、仁晴に体を触らせなかった。

 それを訊いたのは、純粋に好奇心からだった。
 答えを聞いて理解できなかったのは、今思えば仁晴の考えが甘かったせいもあるかもしれない。
 ぶ厚い封筒を受け取った彼は、一息ついてから笑った。
 誘ってくれることはめったになかったが、そうしていれば、彼は定期的にサシ飲みしてくれた。
 仁晴が大勢の中の一人であるときに、決して向けてくれないその顔は、満面の笑顔に満ちていて、最高に輝いていた。
 それを見た仁晴の胸の中に、温もりの陽が差した。
 あの時の、ゆっくりとして、やさしさに満ち満ちているような温もりに包まれる。
 
 それを訊いたのは、純粋に好奇心からだった。
 当然、答えてくれると思っていたのは、今思えば仁晴の考えが甘かったせいもある。
 ぶ厚い封筒を受け取った彼女は、ニッコリと笑ってくれた。
 店の中で浮かべるような営業スマイルではなくて、あかるい昼の日中に会った彼女が、カフェのテーブルの向こうで浮かべる笑顔は、最高に輝いていた。
 それを見た仁晴の胸の中に、温もりの陽が差した。
 あの時、消費者金融のATMブースで感じた、ほんのりとした冬の陽ざし。
 ぬるま湯に包まれるような、その温かさ。
 
 いまおもえば、仁晴は、温かく生きていきたいだけだった。
 そう思う。

 勝手な思い込みなのかもしれないが、もちろん、彼と彼女に対して性欲を感じていなかったと言えばうそになるかもしれないが、もちろん、彼と彼女に対して独占的な愛情を抱いていなかったかといえばそれはそうではないかもしれないが、例えそうであったとしても、彼と彼女をただ純粋に助けたいと思っていたことは確かであったが、その見返りを受け取ろうなどと思っていたこともなく、その結果が、仁晴と彼と彼女の断絶を招こうとも自らがそうするべしとして断行したことにはまったく悔いがないのであるから、これは仁晴にとって必要なことであって、いくら借りたのだとか、何に使ったのだとかそういうことはもうすでに問題ではなくて、ただこれが仁晴自身の真心の結果なのだということをわかってもらいたかっただけであって、もちろん、彼と彼女に対して性欲を感じたから助けようとしたわけではないし、その見返りとして彼と彼女から独占的な愛情が齎されるなんてはつゆほども思ったことなんてないし、これは単純に私がそうするべきであると思ったからそうしただけで、誰かからしろと言われたわけじゃないし、そうしてくれと頼まれたわけでもなくて、彼と彼女が本当に可哀そうだと思ったからの行為であって、それを行った私が悪いだなんて、そんなことがあるわけないし、そういう境遇にある人を助けることが私の中の使命としてあったし、それを見過ごさない人間でありたかったし、あの人も言っていたし、そういう時に無私の奉仕ができるような人間になりたいっていっつも思っていたから、私がそうするべきだと思って彼と彼女に対して独占的な愛を勝ち取るべく動いたわけじゃないって何度も言ったよね、そろそろわかってほしいのに、どうしてそんな顔をしているのかわらからないんだけど、みんなどうしていつまでも私の前からいなくならないのに、ずっとずっと非難がましい目で見られたってもうどうしようもないこともあるんだって言ったし、なんで良いことしたのにそれを非難されなきゃならないのか、ちゃんと理由を言ってよって、私がそうやってみんなそれをわかってくれないのか、それ自体が私にはわらからないって、何度も何度も言ったのに、どうして私ばかりをあの人たちは責め立てて、それ以外の人たちの責任を問おうとしてくれないのか、どうしてあの人たちは私のしたことばかりが悪であると喚きたてるのかわからないし、理解もできないというのなら、私のしたことに仁晴の生き方にいちいち口を出してくるのをやめてほしいって、何度も何度も何度も何度も何度も話し合ったのだから、仁晴はもうただ温かく、家族の誰にもそれを咎められる必要など、仁晴が誰とどう生きていきたいだけだったのだからいうそれをほかの誰かにとやかく言われる必要など付き合いをしていようがおだやかにないし、仁晴はもうなかった。

 仁晴は、ただ穏やかに生きていきたいだけだった。
 そう思う。

 虫が鳴くようなか細い音が、首筋を這いまわっていた。
 振り払うような動作をしていて気がついた。
 いつの間にか、体を入れ替えて、仁晴は後ろを向いていた。
 
 もちろん、それまで前を向いていたと仮定しての話である。
 今までがずっと後ろを向いていたのだとしたら、前を向いたことになるかもしれないが、仁晴の乗せられている漁船が今どちらに向かっているのかは、彼には判じがたいことであった。

 なので、ただ事実だけを見る。
 今まで向いていた方が、前なのだ。
 後ろ向きだったなどとは、思いたくもない。
 
 鉄線を引くような気持ちの悪い音がした。

 目の前ののっぺりとした壁が、それまで見ていた景色と同じのっぺり感を漂わせているので、本当に向きをかえているのか、不安だった。
 ただ、天井についている電灯を覆う、黄ばんだプラスチックのカバーの位置が、それまでの視界からややズレているような気がする。
 天井は霞んでいて、よく見えない。
 
 だからこの、のっぺりとした感じの壁は、今まで背中の向こうにあった壁だった。
 そのはずだった。
 
 原沢。
 いや、樺沢だったか。
 それとも、唐沢と呼ばれているのを見たかもしれない。

 白沢がこしかけていたベンチがこしかけていたのは、どこだったか。
 よく思い出せない。
 思い出す必要はあるだろうか。
 あってもなくても、ミノムシ以下の状況である仁晴には、あまり関係のないことだった。

 肝心なことは、いつ頃、お迎えがくるのか。
 いやこの場合は、見送りだろうか。
 いや、仁晴は投げ入れられるだろうから、見送るのとは違う気がする。
 海に、投入れられるのであれば、投入か。
 投入。
 しかし投げ入れる程度で終りのはなしなのだろうか。
 投げ入れるのではない。
 棄てられるのだ。
 廃棄。
 投げて棄てる。
 投棄。
 放り投げて棄てる。
 放棄。
 放棄は箒に通じる。
 箒は掃除に使うものなので、掃除。
 掃除。
 革新的な響きに思えた。
 社会のお荷物である仁晴を掃除する人。
 このお荷物は重いらしいので、腕力が必要だ。
 すると原沢は、お掃除をする人だったのだ。
 言ってみればゴミ片付け専門業者。
 社会のお荷物片付け。

 ゴミがゴミを片付けるのである。
 だから、白沢は掃除人だった気がする。

 このゴミを履いて棄てるほど世界は広い。
 そうであれば、やっぱり異世界などにはいかなくていい。

 この世界は、仁晴が知らないことばかりに溢れている。
 知りたくもない事実ばかりで溢れている。
 優しくもない奴らばかりがのさばっている。
 こんな世界になど、いなくてもよいから、誰か異世界に連れて行ってほしい。

 光が差した。
 何ごとかと仁晴が、光のやって来る方を見渡すと、
 いままさに、黄昏ていたその視界から、四方の世界を断絶していた壁の一部がとりはらわれて、その先にある世界と、その正体を詳らかにした。
 
 別の言い方をすると、ドアが開いた。

 部屋の外は、部屋だった。
 もう少し詳しく言うと、部屋かどうかはわからなかった。
 白壁の向こうには、白壁があるのが見える。
 壁が開こうがなにしようが、仁晴が動けないことには変わりがないので、それ以上のことは確かめようもなかった。

 しかしそのドアの開き方は、仁晴の知っている普通のドアの開き方とは少し違っていた。
 壁は、音もなく天井の方へと吸い込まれていったように見えた。
 吸い込まれていったのか? 
 その不思議な光景に見惚れて天井を見つめてみたが、あるのは、この部屋から、そのまま続きになっているそれだけだった。
 どれだけ目を凝らしても、壁が吸い込まれていくような収納スペースや、隙間があるようには見えなかった。
 これはドアが開いたと言っていいのだろうか。
 壁が消えたと表現した方がいいかもしれない。
 さきほどまであった、あののっぺりした壁が、きれいさっぱり消えていた。
 この表現の方が正しそうだった。
 
 今時の漁船は進んでいる。
 普段の街暮らしでも、めったにお目にかかれないほどの先進的な技術だ。
 いや、『めったに』という表現は、外した方がよさそうなほど、先進的な技術だ。
 まったくお目にかかれそうにない。

 やっぱり漁船などというのは、そこで働く人にとって、労働するのに過酷な条件であることは、過去も現在も変わらないのだろう。
 景気、経済が劇的によくなる望みもない現在、その労働環境を整えることが人材獲得のための重要な要件であるとするならば、こういうよくわからないドアを設置するということも、福利厚生というか働いている人の好奇心を刺激する職場環境というか、うん、まぁよくわからない。

 なんだこれ。 

 消えた壁の向こうには、仁王立ちする何かがいた。
 
 なんだあれ。

 失われたのっぺりとした壁の代わりとしては、いささかのっぺり感に欠ける何かがいるように見えた。

 目の前の世界が霞んでいる。
 誰なのか。
 唐沢。
 いや、樺沢だったか。

 目を凝らすと、霞む世界の向こうにいる何かを縁取るように赤色の線が走りだし、その何かの輪郭線を浮かび上がらせた。
 
 何が起こったのかわからず、呻き声の一つもあげずに、仁晴は全身を強張らせた。
 そのまま、ドアが開いたときには感じなかった緊張が、頭のてっぺんから湧きおこり、全身を金縛りのように支配した。
 後ろ手に縛られ、麻袋に突っ込まれている状態なので、どちらにしろ身動きは取れなかったから、どうでもよかったが。

 状況に戸惑っていると、何者かの顔が、霞む世界の向こうからヌゥッと現れた。
 まるでぬらついたウナギのごとく光沢のある肌が特徴的なその人物には、見覚えがあるような気がしたが、見覚えが全くないような気もした。
 
 人間であるとは思う。
 目がついていて、鼻があり、口がある。
 しかしなんだか、よくわからない。
 横臥する仁晴の背中をヒヤリとしたものが走って、横切っていった。
 冷や汗が描いた一文字が、意識の内に浮き上がるようにしていつまでも冷たい。
 目の前にいるこれが、仁晴の知らない何かであることを伝えているようだった。
 気味が悪い。
 相手の顔をみているのに、相手の顔を認識できない。
 
 相貌失認症というやつ――か。

 周囲の人間の顔がわからなくなる病気だと聞かされている。
 仁晴は相貌失認症ではなかったが、周囲にいる人間の顔が既に、全てグレイ型宇宙人に見えているので、そんな事は問題がない。
 と医者に言ったことがある。
 
 早田先生は、銀色のグレイ顔についていた虚無を並べたように大きな二つの眼差しを困ったようにゆがめてから、小さな口で、

 それは困りましたねぇ。

 と言った。

 困っているのはこちらにもかかわらず、まるで困っているのはこちらであるとでも言いたげなその口ぶりに、仁晴は非情に困ってしまったが、グレイ顔というのも、見慣れて観ればそれぞれに個性があり、わりとみんなキュートなので困ることはそれほどなかった。

 問題なのは、どの顔もみんなグレイ顔であることで、虚無を並べたように大きな二つの目が、どれも仁晴のことを飲み込もうとして、部屋全体に広がって、孤独な暗い雲の中に押し包もうとすることだった。
 
 だから早田先生の診察室からも、一刻も早く脱出しなければならなかったのに、あの時の診察には全部で一時間もかかってしまって、そのあと、目覚めたのは病院のベッドの上だった。

 あの時は、誰がお見舞いに来てくれたんだっけ――。

 仁晴は、
 来たっけ。
 そういえば、仁晴のちゃんとした顔を観たのは、あの時が五年ぶりくらいだった。

 それ以後、人間がグレイ顔に見えることはなくなった。
 なぜなら、仁晴は気づいたのだ。
 人間がグレイに見えるのではなく、グレイ型宇宙人が擬態した姿というのが、人間なのだということに。
 それがわかってしまえば、みんながちゃんと人間に見えるようになった。
 
 虚無を並べたように大きな二つの眼差しが、私のことを見つめることも、もうなくなっていた。
 
 これは完全にそれっぽい。
 かなりそれっぽい。
 また増えちゃう。
 何が。
 なんでもいいけど。

 だが、あぁそういえば。
 こいつか。
 こいつだったような気がする。
 
 唐沢。
 
 赤い線が縁取り、浮かび上がらせる顔が、そういえばこんな感じの顔だったような気にさせた。

 目がついているし、鼻があって、口がある。 
 間違いない。

 唐沢だ。
 
 そうだ。
 こいつだったような気がする。

 しかし目の前の唐沢と思われる人間は、思いのほか顔色が悪そうだった。
 緑色だ。
 まず間違いなく緑色だった。
 だいぶ立派に育ったブルーチーズみたいな色をしている。
 ブルーチーズというからいかにも青っぽいような気がするが、これは緑色の表現である。
 しかもこの場合、唐沢はチーズではないので、熟成が進んでいるわけではなさそうだった。
 仁晴の記憶によれば、唐沢は日本人に標準的なペールオレンジの肌色をしていたはずだった。

 それが緑色をしているとなると、これは――

 原沢。

 間違いない。
 原沢だ。
 
 原沢といったような気がする。
 
 間違いやすいから気を付けなければならないが、次に会った時に、まず間違いなく原沢であると覚えていられるかは、自信がなかった。
 
 原沢は、何ともぼんやりとした顔をしていた。
 抽象的な存在であった唐沢に対して、原沢という真名を与えたにもかかわらず、その存在は仁晴の目に、確固とした自我を確立しているようには見えなかった。
 余りにも曖昧である。

 やはり、相貌失認症か。

 また増えちゃった。
 なにが。
 なんでもない。

 すくめられる状況であれば、肩をすくめていただろう仁晴に向かって、原沢が鳴いた。
 子猫を煮詰めたような、濁りのある高い声が響く。
 しかしどことなく愛嬌があり、その息吹は、まるでラテンの響きにも似た乾いた南国の風と、強い日差しを感じるリズムに満ちていた。
 その響きは急がずに、忙しなくない。そして肩の力が抜けた、チルアウトミュージック的な素養も持ち合わせていた。

 鳴くのか、原沢。
 そして才に溢れる。

 それにしても、なかなかいい。
 連続して奏でられるラテン系煮詰め猫の囀りは、緑色の両腕が絶妙なテンポに合わせて上下に揺られ、仁晴も体を疼かせた。
 彼の鳴き声からは、抜群のラテンのリズムを感じる。

 しかし不思議なことに、原沢の顔はピクリとも動かなかった。
 その口も鼻も、まったく微動だにしない。
 喉を鳴らしてリズムをとっているのだろうか。
 器用な人だ。

 そう思った矢先、今度は仁晴の視界の隅に、

 ▲

 のオブジェが点滅しはじめた。

 それと同時に、原沢の鳴き声とは別のクリック音が聞こえてくる。
 どこからだろう。
 右の方から聞こえてくるような気がするが、頭の後ろから聞こえてくるような気もした。

 時折に、胸の奥の深い場所からも聞こえるきがする。
 不快ではない。

 不快ではなかったが、癒しのラテンのリズムと比べれば、なんともお粗末な機械音でしかなかった。
 ソルフェジオの癒しに満ちているわけでもなく、ネガティビティなオーラを浄化するわけでもなんでもない、ただただ機械的に鳴る音。
 
 個性も色合いもない、何の面白さもない音。
 まるで、仁晴自身が大気に融けて、その人間性があますことなく拡散していくと、こんな音になるかのような、そんな普通の音。

 それが。

 本当に、まったくなんの工夫もなく、
 
 ▲
 
 の明滅に合わせて鳴るだけだった。
 
 心地よいラテンのリズムを聴かされている最中に、自らの中から湧き上がる無機質の機械音に、その平穏と安らぎをぶち壊されるとは思わなかった。

 まさに、これまでの仁晴の人生を集約したかのような、間の悪さと要領の悪さを感じる。
 仁晴の人生というものは、ほとんど波風の立たことがなかった。
 
 波風の立ちようもない人生だった。
 なぜなら、彼の人生は目的地もわからぬ大海原を行くような、不安定で、必要のない冒険心に溢れる世界ではなかったから。
 仁晴の歩く道は、どこまでもまっすぐに伸び、その路面は、コンクリで整備された土台の上にアスファルトで舗装されていた。

 盤石で見事に整備された道を歩いていくはずだった。

 彼は、自分が多くの家族から愛されていることを知っていたし、クラスメイトたちとは暖かい友情で結ばれていることを知っていた。

 今では、知っていたからといって何にもならなかったそれら。
 愛とか、友情とか言ったものは、どこにあるのかわからなくなっていた。
 
 いままで周りにいてくれた彼ら彼女らは、今は、どこに行ってしまったのだろう。
 いままで、手をつなぎ、隣を走っていた彼ら彼女らは、今は、どこを走っているのだろう。
 
 そう思ってあらためて周囲を見回した時、そこにいてくれたのは、彼と彼女だったのだ。
 間が悪いわけがない。
 何が悪いわけあるだろうか。
 
 ただ少し、何かが違っていただけだ。
 違っていただけなのだ。 

 視界の中を蠢く

 ▲

 も、きっとそうに違いなかったが、しかして間の悪さを隠そうともしないそれは、仁晴の視界の中を移動して、原沢の元までたどり着くと、その股間部分を堂々と指し示した。

 別に原沢の股間になど興味はなかったが、指示されてしまうと、いやが上にも視線を合わせてしまうのが、人間の性とでも言うようなもので、おそらくは生物学的な本能といったものに分類される衝動に突き動かされ、仁晴は原沢の股間を凝視した。

 そこには立派な長さと太さをした象の鼻のような器官がついていて、気がつけば、原沢の両の手が振られるのと同じラテンのリズムを刻んでいた。

 堂々が過ぎる。

 これから人を海に突き落として、溺死させようとする人間のすることか。

 原沢を、自分をこの世界から別の存在次元へと遷移させようとしているチンピラだと思っていた仁晴は、その認識を改めた。
 
 いくら周囲の世界から隔絶した漁船の中とはいえ、裸族としての支配領域が広すぎる。
 しかもその振る舞いに、すこしも恥ずべきところはなく、まさに主の箱を我が都に迎え入れた喜びに感極まったダビデ王がごとくに踊り狂っていた。

 ラテンのリズムではあるが。

 王者の中心で、王者の王者が王者の振る舞いに揺れ動くのを、仁晴はじっと見つめていた。

 実に気分の悪くなる光景であったが、体が自由にならない仁晴は、その裸王ダンスイベントのオーディエンスであることを甘んじて受け入れるしかなかった。
 この特等席中の特等席から立ち上がり、はるかわが家への帰路に就くこともできず、ある種、曖昧に揺れ動くそれを、見続けるしかない。 

 しかも耳に心地よいラテン音楽の調べは、いまだに周囲に鳴り響いていたので、視覚から入る情報と、聴覚で聴きとる情報を合わせた総合評価は、差し引き少しプラスのような気もするから質が悪かった。
 
 あいかわらず、

 ▲

 は原沢の股間で点滅していた。
 霞む世界の中心が、ぼんやりとした王者の王者で満たされたころ。
 仁晴の耳目が、一つの事実を掬い上げた。

 原沢は、股間で鳴いている。
 
 そのことに気づくと、仁晴は戦慄した。
 目の前のこれは、王者の王者である象さんなどではなく、王者の王者たる楽器。

 古代の王は、究極の才人がその立場に就いたのだという。
 肉体に優れることによって踊りにすぐれ、弁舌に優れることによって詩才に溢れ、そして人に好かれる声音によって素晴らしき歌声を備え、それを美しく伝えるために楽器を奏でることに長けていた。
 
 この裸族の王は、その資質のほとんどを備えている。
 つまり、あの股間についているのはハーモニーパイプなのだ。
 ここちよいラテンのリズムを奏でる。

 この事実は、仁晴をひどく打ちのめした。
 この漁船に積まれてからというもの、彼は人間をやめることができなかった。
 
 それゆえに、コーヒー豆であることもできず、焙煎もされない。
 人生の終わり際にまで、自分自身の存在を確として定義することができず、しかも社会の役には立ちえないというのは、恐ろしいこだった。

 一方で。
 股間をハーモニーパイプとして奏でることにより、人を癒す力を持った人がいる。
 熟成ブルーチーズの職人的な顔色の悪さを考慮したとしても、それは誇りを持っていいことであるように思えた。
 振り乱すハーモニーパイプが、人を癒すこともある。

 現に今、原沢の股間から絶え間なく流れくるラテンのリズムに癒されている仁晴がいる。
 これは社会に有用なテクニックといえるだろう。
 
 出来ることならぜひ教えてもらいたいものだが、教えてもらう前から、おそらくは努力ではなく才能がものをいう技術であろうことは、想像に難くなかった。
 それを習得するまでに、仁晴にとっては地獄の苦しみが待っているだろうことも。
 まさか、股間についているイチモツをハーモニーパイプとして使用することのできる人類がいるなどと、誰が想像しえようか。
 
 この常軌を逸した発想と、実現力は、仁晴にはない物だった。
 努力と才能の人でもあるだろう。
 
 原沢という人間は、たしかに仁晴をゴミのように海中に捨て去るのが本業なのであろうが、まさに股間で奏でるラテンの魂、その一点のみにおいて、尊敬に値しうる人間であることは確実だった。

 そして裸族の王なのである。

 出来ることならば弟子入り、もしくは臣下としてかしずき、その偉大なる王の振る舞いに熱狂したいものだが、それを懇願する時間が仁晴に残されているとは到底おもえなかったし、そのチャンスが与えられるはずもなかった。

 仁晴にできることは、まさに振り乱されるハーモニーパイプを見つめ続けることだけだった。
 
 見つめ続けていると。
 その振り乱されるハーモニーパイプの向こう側に、何かが見えた。
 いくつものシワと、いくつかの筋。
 そのクレバスの向こうには、美しい光を放つビー玉のような何かが見えた。
 
 あいかわらず、

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 は原沢の股間を指し示していたが、その隣にはいつの間にか、なにかの模様が浮き上がっている。
 
 文字であるようにも思えたが、それが何かはわからなかった。
 わかるようで、わからない。
 読めるようで、読めない。
 あやふやな文字の重なりと、あやふやな視界が揺れていた。

 本当にわからないのだろうか。
 どうしてわからないのか、彼と彼女はきっとそう思っているに違いないのだ。

 なぜならば、現実はいつも、仁晴に対して優しかったから。

 すると、原沢がハーモニーパイプの向こうで、ニィッと笑ったのが見えた。
 
 笑った。
 股間が、笑った。
 原沢の、股間が、笑った。
 
 感情が高まると、股間の笑う人間がいる。
 それは、仁晴にとって新鮮な驚きに満ちた事実だった。
 表情が顔にない人間がいるのか、そう思って視線を上げる。
 
 すると、そこにはすでに、顔はなかった。
 原沢の顔だと思っていた部分は、顔ではなかった。
 顔のようなパーツが並ぶスペースがあるだけで、あきらかにもう、顔ではない。
 緑色の光沢に濡れ、Tの字にならぶ凹凸と切れ込みが配置された何か。

 ドキリとして視線を股間に戻すと、ハーモニーパイプの向こう側で、さきほどまで細いクレバスを描いていた切れ込みが開かれて、その奥から目玉が見えた。
 
 目玉というには、あまりにも美しかった。
 とても大きなガラス玉の中を、銀の光が飛び交っていた。
 それが、ハーモニーパイプを中心にして、十字を描くように四つ、配されていた。

 なぜそれを目玉だと思ったのか。
 仁晴自身にも分からなかった。
 ブルーチーズのよどんだカビ色の肌をした原沢の目は、しかし美しく、まるで宇宙を飛び交う彗星の輝きを閉じ込めているかのように、たえず煌めいていた。

 なぜそれを顔だと思ったのか。
 仁晴自身にも分からなかった。
 
 だがしかし。
 それは確実に顔だった。
 原沢の顔は、股間についていた。
 そして、ハーモニーパイプだと思っていたハーモニーパイプは、ハーモニーパイプなのではなく、おそらく――
 
 樺沢だ。
 
 まず間違いなく。
 樺沢にちがいない。

 股間に顔のついている人間というのは、今まで一度として見たことがなかったが、みたことがないからといって、いないとも限らない。
 ハーモニーパイプと思われたものも、口か、はたまた鼻かと思えば、それほどおかしなものには見えなかった。

 目が四つあることは、特に問題はない。
 樺沢なのだから。
 
 目が二つある人間がいるのだから、たまたま四つある人間がいてもいい。
 そんなことは、些細な問題だった。
 樺沢にとっては。

 仁晴は安堵した。

 自分が、相貌失認症などではないことに。
 増えなかった。
 よかった。
 何が。
 
 樺沢の口から奏でられるラテンのリズムは、心地のいいチル感に溢れたものから、颯爽としたリズムの、ノリのいいダンスミュージック風のものにまで、そのピッチをあげていた。
 
 両腕と思われるものは興奮に揺れ動き、掌から生えた三本の指が、時折に仁晴を指してはまたリズムを刻む。

 樺沢はいい奴だった。
 仁晴は知っている。
 樺沢はいい奴だった。
 仁晴は知っている。

 唐沢と原沢は、それほどいい奴ではなかったような気がする。

 唐沢はお荷物を片付ける掃除人だった。
 原沢はブルーチーズのような顔色が、具合の悪さを感じさせた。

 どちらも仁晴にとって、とくに意味のない人間だった。
 ような気がする。
 彼らにとって、仁晴は意味のある人間だったかもしれないが。
 そうでもなかったような気もする。
 なぜなら、掃除をする人はゴミがなければやることがなくなるし、ブルーチーズには緑色のカビが生えなければ、熟成しないからだ。

 二つのことは、一見するとまるで無関係に見える。
 しかしそうでないことは、私がよく知っていた。
 彼らは仁晴にとって、それほど大事な人たちではなかった。
 
 目の前の景色が、霞んでいるような気がする。
 
 仁晴は縛られた両腕を、モゾと動かした。
 モヤのかかる目の前の光景が、どうにももどかしい。
 目を掻こうとして、まだ両腕が縛られていることを思い出した。

 手は動かないのだった。
 麻袋に包まれて。
 匂いの。
 悪臭がする奴から、頭だけ出して。
 漁船のキャビンで、沖合に連れていかれる途中のことだった。
 そうだった。
 
 そう。

 その途中、なぜか意識を失って、異世界で目覚めたつもりだったけど、本当はそうではなくて、来る途中に、唐沢に殴られて、服を破かれて、それから、どうしたものか、記憶は曖昧だったが、仁晴はいま、樺沢がラテンのリズムで――

 樺沢が――

 嬉しそうに笑っていた。
 三本しかない指で、仁晴の顔をしきりに指していた。
 
 そうして樺沢は、無造作に仁晴を包んだ麻袋のふちを掴むと、何ごとかを言い立てるように新たなメロディ―を奏でながら、部屋を出た。

 仁晴にとって、星空の世界は、ここから始まる。

 始まるのか。