2022年9月26日月曜日

ツイッターやめたので、ブロガーの愛すべきクソフォント更新。

ツイッターと、あとマストドンもやめました。

ツイッターをやっていると、頭の中の考えを短い言葉でまとめがちになってしまって、本当によくない。
140字というのが悪いよ。
スマホ的な字数って感じするわ。
スマホでスイッスイッ(フリック入力音)してみると、いやになるくらい面倒。
でも、PCでいろいろ作業してるような人間には、絶望的に短い数字なのよ。 

 これがだいたい140字。
 こんなので自分の頭の中を何か表現した気になっているのはよくない。
 まぁ自分フォロワーの増やし方とか、そもそもどういう人をフォローすればいいのかとか、そういうのがよくわからなかったので、以前からプチブログとしての使い方しかしてなかったんですけど。
 他人の呟きを読んで「はぁーなるほどねぇ」と思うより、自分の呟きを読み返して、「バカなこと言っとるなぁコイツ(ワシ)ww」とか思いながらニヨニヨするのが目的だったので、いまさらやめても、何の問題もねぇ。

 それよりも、回転が悪すぎて頭の中の思考力モーターがすぐに「ウーンウーン」と苦しむようにきしんだ音を立てるのを自分でも聴いているような人間が、ツイッターのような脊髄反射力の高さを試されるような大喜利会場で、何かうまいことを言えると思っていたのが間違いだった。
 この大喜利会場というのは、日本全国津々浦々の野に潜む才人たちが集まる場所で、そんなところに凡人代表のような存在がちょこんと居場所を確保してみても、何か面白いことがいえるわけでもなく、気が利いたことをひょうげんできるわけでもなかった。
  倉井という人間は、そういう場所で自分の地頭の良さをひけらかして、人から尊敬されたいと願っている卑屈なクソ野郎であったものの、実際にはそんな高性能な脳みそを装備しているわけがなく、しかもどちらかというと自尊心ばかり高くてまともな仕事一つできない怠惰な人間なので、そんな評価が受けられるわけもなく。

 ツイッターというか短文投稿サイトというものは、実に恐ろしいものです。
 自らにありもしない文学的才能というものを錯覚させ、備えているわけもない崇高な人格がさも己の中に眠っていると勘違いさせる。
 一方で、露悪的な表現をしてみたり、過度に自分の考えを先鋭化させてみたりと、発言の温度が定まらない。
 これは、定見を持っていないレベルの低い思考力しか持たない人間にとっては、非常によくないことでした。

 そもそも、ツイッターの短い文字数制限は、本当、自分にはあっていなかったと思います。
 140字という制限をつけ、しかも反射的な書き込みが必要であるという状況は、ひとつの物事に対する感性をシンプルにさせる効果はあるものの、実際には、自分自身の心の内に湧き出た感情や言葉というものを、不必要にそぎ落として表現するしかなく、それらを救い上げることを難しくさせる効果しかありません。
 そぎ落されて消えていった言葉たちの行き先は、果たしてどこだったのでしょうか。
 本当なら自らの内にとどまるべくして生まれた彼らは、思考の海の底には還らず、空虚の空に露と消え、インターネッツの洞の奥へと飛び去っていってしまったのではないのかと、そう思うのです。

 これは、実にもったいないことだとおもうんですよ、ほんとに。
 自分が思ったことを全部書けるのは、結局ちゃんとしたブログだけなのではないか。
 そう思うのです。

 誰かとつながるのが易しいからとやってみても、それが倉井には難しかった。
 だからもう一度、やろうブログ(標語)