2023年8月30日水曜日

戦国時代モノのライトノベルにこそ、和歌を頑張ってほしいよね。

[ オタク系の和歌 ]

 オタクネタとか二次創作の和歌はやらんのか、と言われるけど、うーん?
 オタクネタの短歌ということになると、今を切り取らなきゃならんということになるから、それは若い人らがやればいいのよ。

 で、二次創作の和歌ってどういうのだろう。
 二次創作する和歌とか、よくわからんわ。
 登場人物になりきって和歌を詠む???

 うーん。
 パッと思いつくのは、ハンパな形で時代物やってるなろう系の作品の二次創作か?
 たとえば「戦国小町苦労譚」とかは、あれだけ小ネタ満載の(実際は深堀してないだけという)スタイルを採りながら、武将系の和歌やらねぇのもったいないよなとは常々思う。

 この作品は、初期には主人公・静子の恋の当て馬として「本多忠勝」が使われた。
 作中の忠勝は、主人公である綾小路静子に懸想するものの、恋愛方面では不器用にすぎ、己の気持ちが(一応、求婚済みではあるが)正しく伝わらぬまま、じつに「10年」という歳月が経過する。
 作品の構想初期には、静子と忠勝の関係が、織徳同盟の潤滑油として機能するみたいなことを狙っていたんだろうけど、途中から静子が神格化していく路線になったせいもあり、「そんなことはなかった」という感じで、現在、二人の関係は完全にフェードアウトしている。
 最近では、そもそも忠勝はおろか、徳川勢が出てこなくなってしまった。

 正史の忠勝は、永禄十二年(1569年。戦国小町作中では『伊勢平定』時点相当)に、十八松平から於久の方を嫁にもらっていて、その五年後には嫡男も生まれている。
 作品としての『戦国小町』はすでに、天正5年(1578年)まで時代が進んでいて、この間、ずっと独身だとすると圧倒的に可哀そうである。しかも、忠勝のお家事情とかその辺は、まったく考慮される気配がない。まぁ、静子に対する慕情冷めやらぬだけであり、実際には妻子持ちとかであれば、それはそれでいいんだけど。
 しかし三方ヶ原編では、浜松城にて織田の後詰を浜松に迎え入れる描写があり、そこでは相変わらず、忠勝が無邪気に静子の来訪をよろこび、彼女から発破をかけられたことで素直に喜んでいるという、アホみたいな描写がある。そこでも、忠勝が妻帯したとかいう情報は、いっさいない。……ので、忠勝はいまだに独身なのでは??? という心配が拭えない。先にも言ったけど、その後のフォローも全くない。
 静子が生涯独身をつらぬいたことはもう語られてるし、親父三人衆が静子の婿取りを話し合った時点で、足満の意向(静子のことはあきらめよという)が、信長を介して徳川方に伝えられているだろうとも思えるから、すでに忠勝の失恋をもったいぶる必要がない気がするんだけど、直近で、簫の結婚話更新しておいて、忠勝をほったらかしってのはかわいそうすぎるという気がしないでもない。
 残念ながら書籍の方は購入していないので、そっちの方の特典SSにでもなっていたら申し訳ないはなしではあるけど。

 二次創作をやるなら、まさにこの本多忠勝よな。
 本多忠勝の詠んだ歌とか、ほとんど知らない。辞世の句しかしらんもん。

: 本多忠勝 辞世 :

 “ 死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば 
意:死にたくない。あぁ死にたくない。死にたくない。まだ生きて殿のご恩に報いたい)
 
 ……。
 これは……レベル芭蕉……か?(松島や(偽作))
 凡人がこの歌を評価してはいけないので、これ以上何も言いませんけど。
 本人的にもこんな感じなので、創作はし放題なんじゃねぇかなぁとは思う(前後の文の食い違いが甚だしい)

 さて。
 これを踏まえて戦国小町作中の忠勝にはなしを移すと、小町版忠勝には、一目ぼれした静子への想いを和歌にして詠う場面がある。
 登場人物の心情が和歌として表現されたのは、今のところはこの一度だけで、後に近衛前久など公家衆が登場したあとも、和歌が詠じられることも和歌の紹介も一度もない。
 本多忠勝の歌が、唯一の和歌だ。
 わざわざ和歌を詠ませて載せたということから、静子と忠勝の関係性については、わりとガチ目のカップルと想定していたんだろうなと思うものの、作品中で述べられているように、静子が特定の人物に嫁ぐなり、婿を迎えるなりしてしまうと、織田‐静子の関係性に、近衛家(綾小路家または尾張近衛家とでもいえばいいか)という楔が入ってしまうことに気がついたので、路線変更せざるを得なくなったという感じもある。
 途中、忠勝はやめて信忠みたいな路線になりつつも、それもやっぱりやめて、突如として松姫持ち出してきたのは笑ったけど。奇妙丸とあれだけ絡んでおきながら、松姫の伏線いれておかんかったくせに、いまさらかい!ってなるよね。長可相手には「襲われちゃあ困るよ?」とまで言わせたくせに、そりゃあないよなぁ(ぉ
 余談が過ぎたけども。
 そういう忠勝の歌だけども。
 出来に関しては推して知るべしという感じだけど、ぶっちゃけ、個人的にはそんなに悪くない、どころかかなり良いと思った。


: 戦国小町版 本多忠勝  :

“ 春風が 桜の花を 散らせども 輝き咲くは 我が心の花 ”

               (小説家になろう掲載 夾竹桃著『戦国小町苦労譚』)

 忠勝っぽいなという、いい感じが出ている。
 マジで、ワシはそんなに悪い出来だと思ってない。
 武人が桜の散る話をするなとは思うけど、そういうとこも含めて気の利かないヤボな猪武者という感じがよく出ている。

 忠勝評でよく出る信長の『花も実もある』という評価は、個人的な解釈からいえば、武人として優れていてなおかつ人品卑しからぬ人間性を持っているということで、教養を指していないのだと思う。信長はとくに人格よりも快活さや気骨というものを好んで人間を評していたタイプなので、忠勝もカラっとした人間性に深い忠義を湛えたタイプなのだろうと思われる(正信に対する態度から言えば、三河者なりの陰湿さはあるだろうけど)
 そういうことを踏まえれば、この歌は、ストレートな忠勝っぽさがでていていいのだ。
 そのうえで、これを二次創作するとしたらどうかと考えた三首。

・桜花空を高みて咲き染めし思ひ静かに春風ぞ吹く
・尾張へとしづく心の桜花我が手に残せこの香だにも
・ことならば君がためにと咲きしみのはつせの山に桜ちるらん


 一首目は一度目の出会いを次の春に思い出しながら詠んだという呈。代作っぽい感じも出せてる……か?
 二首目は一度目の出会いから帰る道すがらに詠んだ呈で。触れてないので静子の薫りが残るはずもなく、手に残っているのは、当然、土産に貰ったいぶり漬けの匂いだ。
 三首目は、三方ヶ原前に一言坂の戦いがおわった後くらい。緒戦を切り抜けたものの、一当てした武田軍の強さと余裕に、死の予感を覚えて詠んだという想定。静子に送ったものの忠勝の限りない忠心を知っている静子に、「君」を家康のことだと誤解され見事、恋に散る。恋の思い出である桜、その実が果てると身が果つをかけ、さらに初瀬山を掛けるという芸当を成りたたせていいのかどうかという疑問はある。『冬』で、初瀬山の桜を入れる野暮ったさは狙った。ただ、年の瀬に春(新年・新世界)を想うというのは、有りか。
 でもなんか、忠勝っぽさはあんまない気がする。

 あとは、三方ヶ原前に浜松城内で織田徳川が結集した際に、家康が「鍋と静子どのはどうなっておる」と、突然、榊原康政と服部半蔵に訊いてきて、二人が驚くという場面を想定して、「あれは、どうにもなりませぬ」というキッパリした回答を得た家康が、戦働きとは対照的な奥手ぶりを発揮する平八郎をみながら詠んだという想定の三首。

手もふれで寄するばかりの白波のおもひ鳴海や音は静なり
・鍋を焚く薪とくべたる梓弓おす甲斐もなく小火もつくまじ
・木綿だすきなければ恋ひもかけられぬめぐる思ひは空糸車

 俳諧にすぎるかのぉ……って感じ。
 康政と半蔵が爆笑するパターン。

 しかしこういうのは、やってみて面白いけど、なんかちょっと違うかなぁって感じする。
 二次創作和歌ってなんだろうというゲシュタルトが崩壊する。むずかしい。

 ただまぁ、こういう和歌とかをやらないのは、理解できるんだわ。
 ひっそりとやる気がないなら、あんな奴らには関わらん方がマシ。


[ 武将と歌 ]

 それでもぶっちゃけ、戦国小町みたいなライト時代小説には、もう少し頑張ってほしいという気はする。
 豆知識ふんだん系とか煽り文でもよく使うけど、豆知識が先行して近頃じゃ過程がすっ飛んでってるからなぁ。スターリングエンジンやりた過ぎて技術レベルが二百五十年分ワープしたのホント悪手だったと思うわ。
 地に足付けて、和歌とか書とかのマメチ入れてくべきなのに、そういうの絶対やらんよな。
 そこやってくれたら、あとはもう大絶賛しかしないのになぁ。
 というわけで、戦国時代の和歌について簡単に補足しておこうと思う。

 まずは戦国時代とはいつ頃か、という感じだけど。
 西暦で言うと、だいたい1400年代末期~1600年代初期ころまでをいう。
 京都の貴族たちが文化の花を開かせた王朝期(800年代~1100年代前半・平安時代)、武士が武力によって天下を差配する権利を分捕った鎌倉期(1200年代~1300年頃・鎌倉時代)なんかと違って、武士が独自に文化を育てていった室町期(1300年代中期~1400年代中期)を経たこの頃には、文化的な活動や教養も、すでに武士のたしなみの一つとなっていたことは、みんな知っているよね!(よね!)

 この戦国の文藝を語らしめる人物というのは、数多い。けれど、和歌が戦国武将たちにとって、どういうものであったかをまず端的に示すというのであれば、三好長慶という武将の歌の一つが挙げられる。
 三好家というのは、室町時代、足利幕府の施政末期、四国の方からやってきて、あっという間に幕政を乗っ取ってしまった有能武家。文武に優れる優秀な武将を輩出したものの、三好家が足利将軍家にとっては陪臣(家臣の家臣)という立場であったことが災いし、権力の座までは奪うことが出来なかった。
 その三好家の勢力絶頂の頃、日本にやってきていた宣教師たちに「日ノ本の王」とまで言われた三好長慶は、
「 歌連歌 ぬるきものぞという人の 梓弓矢を 取りたるもなし 」
(意:和歌をたしなむ武人を馬鹿にするものがいるが、そういう輩に限って、弓や刀を取ってもたいしたことがなく、戦が下手だったりするんだよ)
 と詠って、蛮族と思われがちな武士たちの間ですでに、文と武が不可分のものとなっていたことを示した。

 それ以前だと、戦国の世の草分けであり、関東の雄にして驕慢武士の筆頭に上げられ、なおかつ「和歌三昧、文武兼ね合わせたり」と言われた『太田道灌』がいる。
 道灌に和歌のエピソードは事欠かないが、文武を兼ね備えたという意味では、長尾景春との戦いのいの一番となった、小机城の戦いが面白い。
 関東動乱の先駆けとなった享徳の乱において、それまで肩を並べて戦った長尾景春と相対した道灌は、その初戦として小机城を包囲する。戦域全体で見ると寡兵であった道灌だが、「戦はタイミングと勢いだ」と説くと、二か月におよぶ包囲戦を開始する。その時、「小机はまず手習いの初めにていろはにほへとちりぢりとなる」と歌を詠み、率いていた兵を鼓舞したと言われている。
 太田道灌は、最近で言うとゆうきまさみ先生の「新九郎、奔る!」でも登場していて(すでに当方滅亡済み)、最近、(元々高かった)知名度が上がっているのがうれしい。

 その新九郎こと伊勢早雲は、元々、京の足利幕府内部で政所執事として一大勢力を築いた伊勢氏の傍流であり、雅(都の風流)にも明るく、そして道灌の後塵を進んだ武士の一人でもあるので、こちらも文武両道だった。
 早雲が興して後に北条家と称する相模伊勢氏には、『早雲寺殿二十一箇条』というものがあり、それには「歌を知らぬ人は、それだけで無能。歌を学ぶことは、ひとの気持ちを知ることだ」とあり、他にも「文を左に、武を右にするのは古よりの作法なので、ともに備えよ」とある。
 これは、幕府と朝廷の利害調整も担った政所執事家らしい家訓といえる。
 武士が最終的に自らの存在理由として頼るのは、当時の日本社会において権威としての頂点に立つ天皇と公家たちだ。これらの人々が構成する貴族社会というのは、思ったことを直言することは卑しく恥ずかしいことで、何事もオブラートに包んで遠回しに表現する必要があった。それには和歌の贈答によるコミュニケーションなども含まれていて、これを学ばずにいれば、風流を解さぬ猪武者と思われて軽んじられる。つまり和歌を知らない、和歌を詠まないというだけで、日本の統治システムである公家社会と天皇家に対して、十全に影響力を発揮できないということなのだ。
 早雲はそれを知っていたから、伊勢氏はすでにただの雑兵ではなく、民を治める責任を持った統治者であるのだから、古典を知り和歌を学び、朝廷や幕府との十全なコミュニケーションに務めよ、という訓示を垂れているのである。

 戦国三英傑にも和歌は様々に絡んでいる。
 三英傑筆頭の織田信長は、茶の湯には傾倒したものの、和歌をやらずにいたために公家社会に受け入れられなかった。今知られている信長の和歌は、全部後世の創作だと断じていいと思う。信長自身には、公家とのやりとりに対応できるだけの教養はあったはずだけれど、公家社会が重視する『言いたいことを遠回しに表現する』という慣習が、その性格と致命的なまでに合っていなかったのだろうということは、容易に推測できる。信長と公家社会がうまくいっていなかったというのは衆知のとおりで、それを懐柔するよりは、脅して従わせるという短絡的な手を取ってしまったのも、悪手だった。
 信長は最終的に、戦国最大のミステリーともされる本能寺の変という結末を迎えるわけだけど、この事件のもう一方の当事者である明智光秀の人生を含めて、これを見てみると、この事件に謎などはない。
 この災厄をもたらした明智光秀という人は、信長とは対照的に、公家社会によく馴染み、和歌もよく読んだ人である。信長の家臣として活動した期間も長いけど、織田家の外様としての初期~中期にかけての仕事は、足利将軍家や公家衆への取次が主で、それ以降も、京の社交界での活動が活発だ。
 この信長と光秀という両者を対比した場合、だれがこの金柑頭を唆したのかは、実は明白なのだ。和歌をつくらず、朝廷や公家衆との関わり合いを最低限にしようとする信長と、彼らとコミュニケーションを積極的にとる光秀の、どちらが「天下人」になったほうがいいのか。それは、考えるまでもないことだったのだろう。
 圧倒的な勢力を築きながらも、和歌をやらずに、公家を敵視したがゆえに滅んだという結末は、伊勢早雲の教えが確かなものであったということでもある。

 その信長のあとを継いだ豊臣秀吉は、本人が巷間言われているような「本能寺の変の黒幕」であるかどうかは別として、確実に『なに』がそれに繋がり、主家である織田氏を滅ぼしたのか、ということに気が付いていたフシがある
 なぜなら秀吉は、ほとんどが代作であろうと思われるものの、熱心なまでに和歌を残してるいるからだ。
 自分で作っていたか否かは本当のところはわからないが、わからないなら、わからないなりに、わかりやすい。
 たとえば、秀吉と里村紹巴(さとむらじょうは)という連歌師との間で、面白い逸話が残されている。
 ある時の連歌会で『奥山の紅葉を分けて鳴く蛍』と詠んだ秀吉に対して、紹巴は「蛍が鳴くわけない(意:クソだな)」とピシりとやってしまう。
 その場はまさにヒエッヒエの冷えピタを通り越して、紹巴の首が飛ぶか飛ばぬかという雰囲気にまでなっただろうことは明白なものの、その時同席していた細川幽斎が機転を利かせ「昔なにかで、『蛍よりほか鳴く虫もなし』と書いてあったのを見た(大噓」と紹巴に助け舟をだしたことで、その場はなんとか収まった。
 連歌会の終わったのち幽斎は、謝辞を述べる紹巴に「秀吉に逆らうのはおやめなさい」といって、言外に「次は、死ぬしかないぞ?」とたしなめたという。
 紹巴がそれを受け入れたのかどうなのか。後日、秀吉が別の場で『鬼百合ぐなり』と詠んだ際には一転、紹巴はそれを大絶賛する。
 しかし以前のことを恨みに思っていた秀吉は、それに対して「蛍は鳴かぬが、百合は『ぐなり』とするものか?」とイヤミたっぷりに紹巴に訊いた。つまり、紹巴にはじをかかせるために狙い撃ちしたというわけだけど、当の紹巴はあっけらかんとして「はい。昔から『風さわぐなり』とよく詠まれます」と返した。
 という非常に微笑ましいエピソードがある。(うんうん、ほほえましいね)
 このエピソードは細川幽斎や里村紹巴など、暴君秀吉に対する文化人たちの腹芸による戦いの痛快さ感じられる一方で、「秀吉のセンスは、最悪だった」と暗にバカにしているエピソードでもある。詠んだとされる和歌は、それなりにまともであるのに、連歌会に出てくるとクソ(紹巴談)になるのは、要するにそういうことよと言いたいのだ。
 しかし秀吉自身もそれはあたりまえに痛感していたことで、それゆえに、細川幽斎のような古今伝授を受けた文化人を常に傍らにおいて、己の中に圧倒的に足りない伝統文化に対する理解や、古今の仕来り、その教養の力を、上手く補完していたのだ。これは言ってみれば、「文武を備えよ」という考え方を、それを持たにままに成りあがった者が、形を変えて充足させるための、現実的かつうまいやり方だった。
 また重用される文化人たちの方も悪い気はしないので、人たらしの底力、そのすごさの表れでもある。

 ちなみに。
 茶人・数寄大名として有名な細川幽斎は、戦国時代の逸話のあちこちで顔を出すものの、本人の歌の実力は「いかにも月並み」という評価だったらしい。教養深く、機転の利く頭の回転の早い人ではあったが、芸術的センスはまた別モノということだろうか。
 また里村紹巴は、明智光秀が信長暗殺の決意表明をしたとされる「愛宕百韻」という連歌会の参加者で、当時から、光秀の決起を知っていたのではないかと疑われていた人物でもある。連歌師としての活動はそれ以前から長く、名声も伴っている人で、元々、腹芸がわからぬ性質でもなかったはずなので、秀吉にあえて一度逆らってみせてから追従したのは、「秀吉には含むところなし」と印象付けるための高度な腹芸だったのかもしれない。

 そして三英傑残りの一人――徳川家康。
 三河の松平家、とくに家康の父の代の頃は、立場としては今川家被官のような存在だったこともあって、岡崎城で連歌会が開かれたりしている。家康自身も人質時代に今川義元のもとでしっかりと養育されていたことが今ではわかっていて、安祥松平氏は実は数寄に明るい人たちだと言える。
 戦国時代の数寄武将を描いた名作漫画「ひょうげもの」のような、無骨で数寄が嫌いな家康というのは、本当は実像からはかけ離れていると言っていい。ただ、その武骨で実直、数寄を好まず武を尊ぶという従来の家康像は、一口に間違いだったのだとも言い難い。
 独立して間もない家康が拠り所とした三河とそこに生きる武士たちは、当時は今川からの搾取によって貧窮にあえいでいたこともあり、野武士同然の状況だった。そいつらに今川育ちの駿府の風流などみせようものなら、すぐさま軟弱者とバカにされていたに違いない。実際、三河の一向一揆は、駿府でぬくぬくと育っていた家康が、今更帰ってきて主君づらをするのが気に入らないという反発心から起きたと言ってもいい。そういう状況では、教養をひけらかさず武張ってみせるのも、当人の置かれた状況に対する処世術の一つであったに違いないのだ。
 事実、家康の教養深さを示すエピソードは、独立直後よりも、徐々に実力者としての立場を確立し、誰に憚ることもなくなった壮年期の頃から増えていく。
 和歌に関しては、一つ一つの歌の良し悪しはともかく、一人連歌のエピソードなんかがすごい。家康が江戸から上洛する際に、伊豆の湯治場で逗留した折に、滞在した七日の間に一人で連歌百韻を読んだという話もある。
 部下たちにどういう態度を取っていたのであれ、家康は歌道を軽んじてはいなかった。まさにその証左となると思う。

 このほかにも、大内今川朝倉などの戦国文化人大名は数多くいるが、そこから大きく離れ、武辺者のイメージがある九州武者の代表島津家などにも、新納忠元という家臣に、和歌のエピソードがある。
 この人は、秀吉の九州征伐では、島津勢の中で一番最後まで頑強に抵抗し、主家の島津家から「お願いだから、もうやめて😭」って言われて仕方なく降伏してやったというくらいの武闘派で、「鬼武蔵」の異名を持つ戦国武将の一人だ。
 しかし忠元の戦は降伏後からが本番だったともいえて、彼は幽斎、秀吉相手に二連戦して一勝一引き分けに持ち込んでいる。
 忠元は大口城で行われた降伏の引見の際に、秀吉から受けた大杯になみなみと注がれた酒を飲みほしてみせるのだが、その時、びんつけ油でしっかりと整えた自慢のちょび髭が杯に当たり、ぴんとわずかに音を立てた。
 それを聞いていた幽斎が「口のあたりに鈴虫ぞ鳴く(意:大口あけたヒゲの男が戦に負けて泣いておる)」とポツリ言い放つ。忠元はそれを受けて、今しがた「虫の触覚」と馬鹿にされた自慢のひげをしごきながら、「上髭をちんちろりんとひねりあげ(意:その髭の男は『秀吉どんに』軽々と捻りあげられたんだわ)」と返したという。
「戦に勝ったのはおまえじゃなくて、秀吉どんよ」とユーモアたっぷりの皮肉をきかせた下句を詠んで、連歌バトルをけしかけてきた幽斎を斬り伏せたわけだが、そのやり取りを観ていた秀吉が「忠元よ、まだやる気か?」と脅しをかけると、こちらも「主家がやれというなら、いくらでも(主の命で、おまえには「負けてやった」のよ)」と返す刀の返事で受け止めた。という痛快な逸話がある。
 
 このようにして、当時の武将たちに、和歌の教養は欠くべからざるものであり、歌道は、時においては自らの運命を決めるものであり、時においては戦場での切った張ったよりも己の生き死にを決めるわざとなるものだった。

 このことに気が付いていた武将として最も有名なのが、武田信玄。
 本人も和歌や漢詩を数多く残しているが、信玄には石臼芸(石磨芸)の話がある。
 ある時、配下の長坂釣閑に、今川と北条の小倅ども(氏真・氏政)いかほどなのかと問われた際に、「武功なき武士の教養は、鼠を捕らぬ猫の姿がキレイなのと同じこと。武士の能はあくまで武だ。教養があるのはよいことだがな。それと、石臼にもあれこれ種類があるが、麦を挽くものも茶を挽くものも、どれも一芸に秀でているから『使いどころ』があるのだ。奴らの書も歌も、そのどれもが石で磨った粉のような粗っぽさしかない」と評した。
 つまり、「武功が足りない」「やってはいるが、練られていないので大したことない」ということ。文武両道であることが大事と説いているうえに、そうであるならば、何か一つに磨きをかけた方がいいと言っている。
 氏政の書や和歌というものは全然知らないんだけど、今川氏真は実力派なので、信玄としては、本人の資質や鍛錬以前に、戦場に立たん奴に武将としての価値を認めない、あくまで大事なのは「文武両道」だっていうスタンスだったと思われる。
 自身はとくに和歌を嗜んで、それを「人は堀 人は石垣 人は城 情けは見方 仇は敵なり」という風に、家臣の人間教育にまで使った人だから、とくにそういう思いは強かったのかもしれない。



 というように、主要な人々だけでも、戦国武将と和歌は、豊富なエピソードに溢れているのだ。
 といっても、まぁここで紹介したものの八割がた、後の世の人の創作って言われてるんですけどねぇ! (