2023年6月15日木曜日

吉野ケ里遺跡の石棺発掘がある程度終了。




 骨どころか副葬品のかけらもないとなると、このお墓はやはり、初期の殯宮(あらきのみや/ひんきゅう)みたいなものなんじゃないのかな?

 殯宮というのは、『殯(もがり)』という、貴人が亡くなったあと、一定期間遺体を安置して、黄泉がえりを待つ儀式を執り行う施設のこと。
 これは中国から伝わった風習の一つで、普通は三年くらいの期間を目安に執り行われる。
 弔問の客を受け入れると同時に、腐っていく遺体の状況を定期的に確認していたらしい。
 なんでそんなことをするかと言えばまぁ、迷信以上の医療技術がなかった時代、「死亡確認!」なんていうものは、王大人以下の精度しかなかったというのがある。完全に死亡した(と思われた)人が、息を吹き返したことなんて、一度や二度じゃないんだろうね。そしてそれがまさに『黄泉がえり』の思想に繋がるし、なんならワンチャン、黄泉の国から追い返されてきてほしいってわけ。
 ほかにも、弔問に訪れる側(お使い)の問題もある。
 青森だろうが北海道だろうが、電信で距離の概念を消し去れる今と違って、遠方の知己に訃報が届くのには早くて数か月の時間を要する時代であり、その気になれば半日で3000キロを走破できる現代と違って、100キロを移動するのだって半月懸かり、川や海を渡るのは命がけの時代だったというのであれば、死んですぐに墓に入れましたというわけにもいかなかったというのがある。
 そういう必死の労力と命をかけて訪れた弔問の使者側とすれば、遺体を見たわけでもないのに「もう墓に入れちまいましたよ」と言われてしまっては、なんとも徒労の感が強い。それで帰途に着いたとして、帰り着いたら「すげなく追い返された」と報告するしかないし、そうなると「死んだのは本当に大王なのか?」という疑念の心も沸いてしまう。
 そういう時代性も含めて、殯は最大で三十年くらいやってたんじゃないかっていう説も。
 しかもこれが、現代では姿を消した風習かと思いきや、「お通夜」がそれの名残とされていて、さんじうねんに及ぶ壮大なお通夜が、いまでは最大七日位に短縮されたと考えると、現代人にとっては実にありがたい話である。

 今回、吉野ケ里の新エリアから見つかった石棺については、権力者をこんな粗末な墓に入れたか入れなかったかと議論するよりも、やはり殯のために、当地に墓を模した神殿のようなものが建設されていたんじゃないかと思うのが、自然であるように思う。

 ニュースだけを受けて、吉野ケ里遺跡に興味ないニワカどもは色々勘違いしているんだけど、吉野ケ里遺跡ではもう墓なんてとっくに発掘されてるんだ。そもそものところ、このニュースは、「初めてお墓発見しました」とかじゃなくて、いままで神社だったところの下を掘ったら「石棺みたいなの出てきちゃったよおおおお!」っていう話なの。
 それなのに「九州はアルカリ性の強い地質だから「骨も装飾品も残らない」とか主張してる奴らがいるのが笑止。おそらくこいつらの想定している「装飾品」というのは「動物の骨から削り出した粗末なアクセサリー」みたいなもんなんだろうけど、あまりにも無知すぎる。
 古代人舐めんな。というか、吉野ケ里遺跡を舐めるなって話だけど、吉野ケ里からは、石器も鉄器も出てるし、普通に金属の装飾品も玉器も出てる。なんならガラス製の管玉も出てるから。

 以前から発掘されてるお墓から普通に副葬品出てるのに、あのレベルの石蓋をする石棺の中から、そういったものが出てこないというのは考えにくい。
 この場合においては、逆に、「そもそも入ってなかった」と考えるのが自然じゃないだろうか。
 どうして入ってなかったかといえば「お墓ではなかったから」ということになる。
 ほかのきちんとした墓がある以上、やはり今回の石棺と思われるものは、殯(のような儀式)のための施設の一部だったのでは? と考えたい。
 これは、後の時代に、当地に神社が建立されたという事実にも繋がる。この周辺が、死者を祀る神聖なエリアだったという認識が、当時の人々にもあり、神社を建てる候補となったと考えれば、実に自然な流れとなる。

 さらに、これが殯宮跡であることを裏付ける要素として、石蓋の二か所に「×印」が刻まれているということも挙げておく。バツ印は現代でも、お通夜を報せる記として残っているから、この石棺が殯に関係していたのではないかとする根拠の一つになるように思う。

 しかしこの殯宮説には、同じ九州の鶴見山古墳で見られたような『殯の痕跡』がないという重要な瑕疵がある。鶴見山古墳だと、殯の痕跡として毛髪やハエの卵の痕跡が確認されているから、この吉野ヶ里の石棺が、ただちにそうだとは言い難い。
 
 吉野ケ里の隆盛は二世紀代で、九州の古墳文化の隆盛は六世紀(前述の鶴見山古墳は磐井の乱の磐井氏係累の墓)という大幅な時間の乖離もある。
 なので実際に、吉野ケ里と言う集落で『殯』そのものの儀式が行われていたかどうかというと、それもないだろうなと思う。 
 あくまでも、墓に模した施設であり、一旦「仮に埋葬した」として安置して、親類や親交のあった付近の豪族の弔問を受けるための施設だったんじゃないかと思う。
 石棺の石蓋については、蓋ではなくやはり、遺体を寝かせておくための『寝台』であったと思うんだけど、三つに割れていることから考えれば、その内部に遺体を安置して、顔を見るために一つ空けておいたんじゃないかとか、別の埋葬場所に移すときのために、開けやすく三つに割っておいたとか、いろいろ想像もできる。

 いずれにしろ、これが「邪馬台国の指導者 卑弥呼」のような、特定の誰かを埋葬した墓であるという可能性は、個人的には低い感じ。
 いかにも小さすぎる墓のサイズとそれにしてはデカい石蓋のアンバランス、権力者の墓であることを示す禁色の赤を使用していること、なのに、骨と副葬品の痕跡がないこと、蓋の上に描かれたバツ印、これらはすべて、「殯」という儀式を連想させるに無理がない。

 もしかしたら、バツ印が書いてあった時点で、学者の先生方の中には、中身のないことを薄々感じ取っていた人もいるかもしれん。だから、マスコミの過熱とは裏腹に、邪馬台国関係者からの反応は冷淡だった。
 中身が出なくてガッカリって人も多いようだけど、中身が出ないからこそ、何らかの意味があったと考えると面白いんだ。

 そういうわけで、続報が出るまで、ワシはこれを殯宮だと思うことにするわ(

※「×」印についての補足
 東アジア文化圏で最初に×印が現れるのは古代中国で、死体に「×」や「V」を描いたり彫ったりすることによって、空をさまよう魂に『もう帰ってこないでください』という現世側の意思を伝える「黄泉がえり禁止」の記号として使われ始めた。
 貴人の遺体にはこれを描かずに「故人の黄泉がえりを待つ」というのが、「殯」の儀式。これは生者が死者の帰還を待つという、どちらかという死者のため、死後の世界を重視したための儀式であると言える。(だから、「帰ってくるな」と伝えるための記号ができた)
 ところが、殯の儀式は日本に伝わった後に少し性格が変わったような雰囲気があり、どちらかというと、喪主が弔問客とともに「故人がよみがえらないことを確認する儀式」になった。つまり、死者のためではなく、生者のための儀式へと逆転した。
 吉野ヶ里の石棺に描かれた「×」も。黄泉がえり禁止というよりは、「(この棺は)死者のためのものです」を表す意図があるように思う。