2023年1月8日日曜日

キンヌーって略してる人がいて衝撃だったキングヌー。

 King Gnu井口「タバコやめてと言う優しい人ありがとう」――ガジェット通信

 キングヌーの曲聴くと、なぜか『オズワルド』の伊藤が歌ってる姿で脳裏に再生される。
 なんの刷り込みなのか意味不明すぎる。

 しかしあれだよ。
 伊集院光とかもそうだけど、他者と繋がることが前提のSNSをやっておいて、つながった人から意見されると、烈火のごとく敵愾心を燃え上がらせるのなんなの。
 まぁこの場合は、リアルでも散々「タバコやめとけ」を言われた末に、我慢の堰がわずかに決壊してしまっただけというのは想像に難くないことではあるけど。
 それを我慢できないなら、ツイッターやるなよって思うわ。
 
 ワシはそもそも煙草を吸わない(高校卒業後に喫煙者に勧められて一本吸ってみたことはあるが、ワシが趣味にするべきものではないという判断を下して以来、マジで一本も吸ってない)、ほとんど完全なる非喫煙者であるのだが、父がヘビースモーカーだったために、将来において肺がんになることが確定していそうなくらいに、まき散らされた副流煙が原因の受動喫煙被害者だ。
 しかし嫌煙者というわけではなくて、喫煙者と非喫煙者の両者の正しい棲み分けこそを考えようという立場ではある。ので、まるで親の仇とでもいうかのように喫煙者に絡んでいく嫌煙家たちのことは、まごうことなく嫌いである。
 なぜなら、煙草というものを前にして、一人の人間が持つ権利というものは、『吸う権利』と『吸わない権利』の2つに大別されるからである。
 前述したように、ワシは非喫煙者であり、タバコは吸わない権利を行使している。
 しかしそのワシにも、『吸う権利』はあるのである。
 そして、その2つが合わさることによって、私が持つ煙草に対する『自由』というものが成り立つのである。
 自由主義という国に生きている我々は、他人の権利を侵害せず、社会に不利益をもたらさないように生きるのであれば、すべてのことが自由に行える『権利』を有している。
 煙草に対する権利というものは、いかなることであれ、それすなわち、ワシの自由なのである。
 それなのにどうして、世に憚る嫌煙家たちは、一人の人間に用意されたタバコを吸う権利、自由を奪おうとするのだろうか。
 それは、ワシの権利を侵害していることにはならないだろうか。
 なんでワシの自由を奪おうとするのだろうか。
 おまえたちは。
 だからワシは、おまえたち嫌煙家という奴らが嫌いである。嫌いなら嫌いでいるのはいいが、ワシの自由を奪うな。
 その代わり、喫煙者も喫煙者で、ちゃんとマナーを守れ。その煙が有害であることは動かしようのない事実で、周囲の人間に迷惑をかけること大であるのは、確実なことである。
 だけど、マナーを守り、ちゃんと喫煙スペースで呑むなら、それでいい。それ以上のことは求めない。

 だが、それ以上のことを求めるヒステリックな嫌煙家たちというのは、まず間違いなくクソ。そのクソにクソって言って何が悪いっていうのは、まぁワシも理解できることではあるけど、知名度もなんも必要ない一般人のワシと比べて、おまんらセレブは、SNSで気ままにふるまえばどういう目に合うかなんぞ、想像の埒外というわけでもあるまい。
 しかも煽り耐性低すぎて炎上するならともかく、ミュージシャンの喉を心配したファンからの、「御身の障りになりませぬように」と意を決して行われた御注進にむかって、勘気を起こしてぶった切るとか、てめぇはヒョロヒョロボーカルバンド界の細川忠興かっつーの。
 なんで心配してくれてるかわかんねーの? 
 てめぇのひゅーひゅー喉を鳴らしてイキってる喘息系ボーカルが心配だからだろうよ。
 おめーに向けられたのはファンのやさしさだ。
 それは、甘んじて受け入れたほうがいい。

 煙草を吸うすわねぇじゃねぇ。
 優しい人に向かってありがとうって言えるなら、お前自身も優しくなれよ。