2022年11月6日日曜日

『他人の話を信じやすい』のと、『他人に騙されやすい』のは、本当に別の話なのか。

 先日、ひょんなことから、ずっとニューヨーク生まれだと思っていた人が、実は日本生まれだったことを知った。
 だから何だという話なんだけど。
 小学生のころに、
「俺はお母さんが旅行してた時にニューヨークで生まれたから、アメリカ人なんだぜ!」
 という話を聞かされていて、「そうなんだ」って素直に信じていたのだけれど、知人たちとの会話の中でその『彼』の話が出たもんだから、「そういえば彼、ニューヨーク生まれなんでしょ? 結局、国籍は日本にしたの?」って、ナチュラルにその話をしたら、「そんなわけないじゃん!」って大笑いされて発覚した。
 
 彼が言ったその言葉を信じていたというよりは、疑う必要性を感じていなかった、というのが正しいだろうか。
 彼は別に、虚言癖があったわけでもないし、かまってちゃんだったわけでもないので、単純に私が、彼の他愛もない冗談を真に受けていただけという話なのだが、私はその単純さでもって、小学校の頃の『彼はニューヨーク生まれ』という思い出を、ずっと抱えて生きていた。
 間違っていた級友たちの消息は、ほかにも多数あって、あんなことやこんなことが間違っているということを、今更に知ることになったのだが、いやはや、自分でも呆れるほど見事なまでに、いたずらな作り話を信じ込んでいたものである。
 やれ誰それは、高校で担任を殴って中退し、今は大工やってるとか、あの子は中学の時点で大学生の彼氏がいて、高校の卒業式終わったらすぐ結婚しちゃったよとか、そんな話を、まったく丸々鵜呑みにしていた。
 その情報のほとんどは、自動車の免許を取るときに通った地元の自動車学校で、たまたま一緒になった中学の時の同級生男子二人組から仕入れた話がその全てであり、ありとあらゆるホラを吹き込んできたのは、彼らだ。奇縁というべきか、その男子二人は、ニューヨーク生まれの『彼』と仲の良かった二人でもある。
 そのことを思い返してみると、どうやら私が知らないだけで、中学までの同級生の間で、私は『冗談話を鵜吞みにする、だましやすい奴』という『評判』があったのではないかと思う。
 被害妄想というべき思い込みかもしれないが、その男子二人は、私と仲が良かったわけではないので、そういうことでもなければ、わざわざ話しかけられもしなかったろうなと、今更ながらに思い至った。
 なんにしても私が、人生いろいろあるのだなぁと、漠然とした感慨を巡らせていた「先生を殴って高校中退しちゃった彼」も「大学生と付き合ってて、結構遊んでるらしい彼女」も、本当はごくごく平凡に生きているらしい。当人にとっては波乱万丈なこともあるだろうが、事件事故に巻き込まれたという話もない分、三台玉突きの真ん中に挟まれた経験を持つ私よりも、穏やかな人生を送っているだろうことは、想像に難くない。
 しかし校内暴力にしても、大学生カレシのいる中学女子にしても、そんな人生を歩んだ人間がいないとなると、よかったねという安堵の気持ちを通り越して、なんだか惜しい気がしてくるから不思議だ。

 まぁそういう人たちが、いたことにしてもいいじゃないのか。
 どうせその人たちとは、中学以来会っていないのだし。
 これからもどうせ合わないのだろうから、私の頭の中で激しく渦を巻く妄想の人生潮流に、そういう人たちが流されていって何が悪いのか。
 私にはリアルの友人がほとんど存在しないが、そうであるならば、逆説的に、私の頭の中に、ドラスティックな人生を歩んでいる知人が複数いてはいけないはずもない。
 ない、かなぁ?
 
 私は中学の卒業と同時に、当時の地元の中学生たちからは『スベリ止め』扱いを受ける私立高校に進学したほぼ唯一の人間となったので、それまで同様に地元で生活していながら、ほとんどの同級生たちとのつながりが、自然と立ち消えた。
 中学生の頃の『私たち』には、東京という場所への強い憧れがあり、その憧れに近づくために、少しでも南の高校へ行くことが重要だった。あの頃はまだ学区制だった公立高校への進学者は別として、とくに私立高校への進学を希望する人たちには、ほぼ地元の私立高校に行くメリットなどというものはないに等しかった。そういう事情から、滑り止めでありながら、頭の悪い人ほど選択肢として選ばない高校の一つとして、私の母校が存在した。
 そんな私の母校には、『東京からそう遠くない場所にある』という絶妙な距離感がゆえに、逆に『東京からあぶれた』人たちが多く来ていて、クラスメイトなどには東京人が多くいた。
 わりと進学校になってしまった現在の母校であれば、東京からわざわざ来る人もいないではないだろうが、当時はまだ悪い意味での知名度しかなかったものだから、そんな高校に来ざるを得なかった彼らは、文字通りの『東京の落ちこぼれ』だった。
 しかしイメージ通りの『落ちこぼれ』ではなかった。彼らは、東京にさえいなかったら、滑り止めの学校になんて来なくていいくらいの学力はあったと思う。
 東京という所は、なにせ人だけは多いところで、その人口の多さを理由にして『頭は悪くない』程度では、いける学校がなくなる高校受験修羅の地であるらしい。かの地の受験戦争は、地方でいう所の『頭がめっちゃいい子』だけでほとんどの席が埋まり、残った余りの席を『頭のいい子』が奪い合うというのだ。
 私の母校に来ていた人たちはみんな、そういう『頭のいい子』よりさらにちょっと下の「普通の子」レベルの人達だったと思う。みんな、頭は悪くない。けれど、そういう東京で戦った受験戦争に燃え尽きて、この高校にたどり着いてしまった。という、燃え尽き症候群のような雰囲気をさせていて、学校生活そのものに身の入らない人が多かった。
 私のクラスは三年間クラスメイトの変わらない持ちあがりだったが、一人が転科、一人が留年(不登校)し、二年次の二学期までに四人が中退したので、毎年わりと新鮮な気持ちで高校生活を送れたものだが、そういうわけで、いなくなった人が、ほかの高校よりもちょっと多かったかもしれない。
 中退していなくなった一人の中に、東京から来ていた子がいて、席も近かったせいもあって、私はけっこう仲良くしていた(つもり)
 その彼は、鉄道マニアでパチンコ好きという、ティーンにしてオッサン趣味を極めていたような人で、要するに変わり者だった。あらためて思い出せば、彼もまた、東京に疲れてしまった一人だったのだろう。学校生活への熱意などなく、いつもどこからしらけたような雰囲気をさせていた。そうして、学校生活に馴染む気もないという態度も変わらぬままに、二年次に入る前に辞めていった。
 今更、彼との会話の内容を詳しく思い出せるわけもないが、最後の方は、鉄道とパチンコの話題に終始していたように思う。
 私は、パチンコ中毒から足を洗った父から、その中身のからくりをすでに知らされていたために、なぜそんなものに夢中になるのだろうという疑問をいつも抱いていて、そのためことあるごとに、その『からくり』の話をして彼の心をそこから離そうと試みたが、「ズルできる仕組みがあるってことは、ズルできる打ち方もあるんだぜ」というわかったような、わからないような言葉で、逆に言いくるめられてしまう始末だった。
 そんな彼が「もうやめること決まったから」と言ったとき、この後どうするの? と何気なく聞いたのだけは、今でもしっかりと覚えている。彼は「四十万あればパチンコの必勝法の情報買えるから、バイトして稼いで、そのあとはパチプロやって生きていく」と言っていた。
 脳細胞のすべてが単細胞生物の集まりで来ている単細胞人間である私は「そういうのがあるんだぁ……」と、その言葉をまったくの鵜呑みにして、別の世界に行こうとしていた彼を、心の中で見送った。
 そうして、想像上の『いろいろな生き方』の一つに、『パチンコで食べていく彼』という類例を加え、つい最近まで生きてきた。
 
「嘘に決まってんだろ! 知ってんだったら、なんで止めなかったんだ!」
 って、その話をして、おこらいたのが、つい先日。
 四十万円で買えるパチンコ必勝法……嘘なの……?
 ふえぇ……(二十年越しの衝撃による幼女化)
 しかもこれ、「情報商材系詐欺」の一つで、昔も今も、よくあるタイプの奴らしい。
  
 純な高校一年生だったあの日、初めて目の当たりにする『中退』という出来事とともに、それが世の中の仕組みって奴か……と、いろいろな人生の難しさを知らされたような気になっていたあの日から、「いまもどこかでパチプロしてるはずのアイツ」として、私の思い出の中にいた彼は、早々に人生の酸いも甘いも経験して、別の形の人生の荒波を渡っているかもしれない。でも、普通にその後改心して生きてる可能性もあるじゃんな。
 別にどっちでもいいけど。
 私の頭の中の彼は、パチンコ必勝法を使ってバチバチに稼ぎまくってるパチプロとして生きているのだからよぉ。

 しかしそういうわけで、もしかしなくても彼は、騙されていたらしい。
 途中で、アホなことだったと気づけるタイプではあったように思うが、だけど、騙されるときって、騙されレールに乗っちゃってるから、なかなか脱線できんのよね。

 でもまぁ、私は騙されたりしたことはないけどね。
 詐欺に引っかかったこともない。
 大宮駅の周りでやってる募金詐欺に千円募金したことがあるくらいで、ほかには何もない。なんなら、オレオレ詐欺なんか、二回もかかってきたけど、二回ともワシが出てやったからな、ガハハ!

 そういうわけで、騙されたことはないのだ。
 でも、『同級生の彼はニューヨーク生まれ』だし、『先生を殴って高校を中退した人』を知っているし、『ロリコン大学生と付き合っていた中学女子のうわさ』をきいて、そのくだらない話を、どこまでも本当のことなのだと信じきっていた。
 いや、疑わないでいた。
 どの話も私の中には真実としてあって、その人に、事実そういうことが起きたのだと信じていた。
 結局は、下世話な噂話を鵜呑みにする低俗な人間であることの証明にしかならない話だが、でもでも、『私は』騙されちゃいない、と思いたい。
 
 私は、騙されていない。
 信じる人であるから。
 と、心の中で思っていても、こういう話をしていると、どうしても机の上に乗る聖書が気になるわけで。私はキリスト教とともに今までの人生を送ってきたことを否定したり、隠したり、恥ずかしがったりすることはないが、でも時折に感じることはある。
「信じるのと騙されるのって、本当に別の話なのかなぁ」って。

 つーか、最終的なこのぶっこみ方が、騙す方のやり口。
 気をつけろよ!(何に