2022年11月18日金曜日

【短編小説】通報

 ここにくる以前は、仕事とたまの休みを繰り返すばかりの日々を過ごしていた。
 そのこと自体に特に不満があったわけでもなかったが、不満のないならないなりに、人は不平を感じるものらしく、それを一度、「無味乾燥な都会暮らし」と飽いてしまえば、もう我慢がならなかった。
 働き方など、どうとでもなるこの方である。
 地方への移住を決断したのは、つい数か月前のことだった。
 移り住んだのは、どこにでもありそうな山中の景に埋もれるようにしてある田舎だった。人家はまばらで、広大な面積のわりにそのほとんどは森の緑に埋もれているか、そうでなければ棚田と畑が山の斜面を這うようにして昇っていくのが見られるという場所で、入り組んだ山々のはざまにひっそりとある、という言葉がぴったりだった。しかしそこは、無味乾燥なコンクリのビルディングと、不機嫌そうな音を鳴らして走る電車の列を眺めて暮らしていた私の目に、あまりにもまぶしく映った。
 ここを終の棲家と決意したわけではないにしろ、山のある暮らしというのは、始めて見れば悪くなかった。数年ばかりは遊んで暮らせる蓄えもあることだしと、気楽な気分も幸いしたのだろう。地域の人たちとの交流も思いのほかたのしく、移住前にみんなから散々「めんどくさいよ」と脅かされた寄合なども、それ自体、山里というものを中から眺める機会と捉え、楽しんで参加していた。
 私にとってこれは、長い人生の中において、確実に糧となる貴重な経験となるはずだった。
 ここへ移り住んできたのは梅雨を前にするころだったが、今はもう山も色づく紅葉の季節を迎えている。とはいえ、山の季節は足早に過ぎ、吹く風は冴え冴えとして、すでに切るような冷たさをはらみ始めていた。
 山間の小さな集落が隣り合う季節というものは、都会に生きていたときよりも、人の身に迫る。知らぬ間に移ろうのが都会での『季節』だったが、ここではそれは、駆け足で通り過ぎていくものだった。この冷たい風は、今がまだ秋と思い込んでいた私に、山という場所から与えられた警告のようだった。
 ここで生きることの厳しさを、私はまだ知らないのではないか。そう思わせるに十分な警告ではあったが、しかし自然の傍らに生きている私の周りを流れていくその『駆け足の時間』は、進むペースの早さとは裏腹に、あまりにもゆったりとしていて、心地よかった。
 その心地よさに誘われるようにして集落をあちこち歩いている間に、今ではすっかり散歩が趣味だ。
 移り住んだ当初は、まがりくねった先の見えないあの道もこの道も、どこへ続くとも知れぬ暗い山の中に吸い込まれるような不気味さを感じたものだが、その印象は今では全く逆になり、陰影の濃い山里の輪郭を描く田舎の道こそ、覚えてしまえばわかりやすいのだと理解していた。
 どこに向かうか、まず目的地があって道ができるためなのか、どこへ続くかわからない道などというものはなく、ここで分かれた先には郵便局が、またこの道はお寺へと、そして、あのカーブの先は隣の集落へ続く道という具合に、必ずどこかにたどり着くのが、山道だった。
 それに、すべてが住民の生活道路という根本があるために、行き止まりというものも滅多にない。散歩をするには、まさにうってつけなのだ。
 その日も、秋晴れの空に暖かな日が差していた。
 心地の良い日差しをいっぱいに浴びて、ゆったりとして流れる田舎時間を満喫しようと、地元の人たちから『しょうじょうさん』という愛称で呼ばれるお寺の近くまで、足を延ばすことにした。
 目の前で二股に分かれた道を迷わずに右にはいり、収穫の終わった小さな棚田のふもとを抜ける。
 つい先日までは、黄金色の稲穂をつけた見事な田んぼだったが、今はもう、竹さおの馳せに掛けた稲わらが、秋の空気にくすんだ枯れ草色のアクセントをつける山里の稔りとなっている。これもまた、ビルの森の都会では見ない光景だった。日本の原風景と呼ぶべきものが、ここにあるのだろう。そんなひねりのない感慨を抱きながら、畦に沿ってゆるやかに昇り降りする道を、ゆっくりと歩いていた。
 ぽかぽかとした日差しを楽しみながら、山里の空気をいっぱいに吸い上げると、それに釣られたとでもうのだろうか。カーブの先に消えていく道の向こうから、冷たい風が吹いてきた。
 身震いを一つしてから、うわぎの袂をなおす。
 冬が近い。その寒さの一端に触れたような気がした。
 白一色に染まる山と、抜けるような冬の青空。
 そんなイメージが、まだそれを知らない私の中に沸き起こった。
 その瞬間、そんな私の素人考えをたしなめるようにしてひときわ強く吹いた風が、道の上に横たわっていた茶色の葉っぱたちを巻き上げた。おどろいて「わっ」と小さく声を上げた私の脇を、すり抜けるようにして枯葉たちが舞い上がった。巻いた風に乗りじゃれ合うように空へと昇っていく彼らの内のいくらかが、太陽の光を浴びて、金色に輝いた。山の豊かさを示す、黄金の金貨たち。深秋の色を集落に塗り込めて、まだそれは終わらぬのだと言いたげな、落葉の輝きだった。
 それらが旗雲の広がる空を、ことさらに高く高く押し上げるように昇っていくのを目で追うと、その向こうに、秋の輝きの源となる一本の巨木が見えた。
 見事なばかりに色づいた、黄金の銀杏だった。地元の人たちからは、「清浄さんの屋根」と呼ばれる大きな銀杏だ。ここへ来たばかりのころ、「道で迷ったら、あの木を目指せばよかんべ」と教えられた集落のランドマークである。
 とはいえ、教えられたからといって、それが本当に私の中で目印として機能するには、幾ばくかの時間が必要だった。「あの木」というが、「この木」であるとすぐにわかるようになったのも、つい最近のことなのだ。そも山の景色は、いまだにどこも同じように見えるときがある。都会育ちである私が、この景色の一員となるには、まだ時間がかかりそうだった。
 だが少しずつ。少しずつだが、ここが私自身の暮らす場所となっているのを、日々感じていた。それは「清浄さんのところの大きな銀杏」の姿を見つけるまでの時間の短さに表れていた。ふとした時に目に入る銀杏の木の姿を、何気なく『そう』であると想えることが、増えてきている。それを繰り返していくたびに、この地の人たちの言う『清浄さんの屋根』が、私自身の屋根になってくれる日も、そう遠くないと感じられるのだ。
 冬までには、ちょっと無理だろうか。いや、冬の頃には、そうなりたい。すでにここで年を越すことまで考えながら歩いていると、さわりと踏んだ枯葉が鳴った。姿の見えぬ誰かにそっと、「着いたよ」と知らされた気がして顔をあげると、「清浄さん」の境内を囲む白い漆喰の壁が目に入る。
 日暮れまではまだ時間があるが、いつの間にか日はやや陰り、昼の日中に見れば美しいとまで言えるほど、見事に手入れをされていた白い壁が、やや暗鬱な灰色に染まっていた。午後の時間に、夜へ向かって大きく育っていく山の影が、もう集落を覆い始めているのだ。
 今日はここまでにしておこう。そう思って、踵を返しかけた私の耳に、ざわめくような人の声が聞こえた。
 ふと見ると、お寺の山門のあたりに、幾人かの人たちが輪になってたむろしていた。何もおかしなことはない。田舎の人というのは、ああやって井戸端会議のようなことをするものだ。中には見知ったおじいさんも幾人かいて、まだ少し距離はあったのに、やはりこれも田舎の人らしい目敏さでこちらを見つけると、軽く手を挙げてくれた。すかさず、こちらも手を振り返した。
 田舎を知らない私が学んだ、素人なりの集落処世術とでもいおうか。よそ者は、すこし大げさなくらいでいい。
 都会の人とは違う意味で、田舎の人たちはジェスチュアを伴ったコミュニケーションに敏感だった。そっけない態度に対する、『そっけない』の感度が違うのだ。それをすでに知っていた私は、音が鳴るかと思うほど思いきり手を振った後は、おまけとばかりに、お辞儀もしてしまう。いささか演技過剰ではないかと自分でも思ったが、わかりやすいことは悪いことではないのだと割り切って、深々と頭を下げて見せた。
 田舎の人は、こういうのが大事なのだと、夏祭りの時に学んだ。些細な躊躇が小さなすれ違いを生んで、それが大事になりかけたことが、苦い経験としてある。今となっては笑い話にしかならない行き違いなのだが、挨拶はどこでも大事と学んだことは、
 そうして頭をあげようとしたところで、私の挙動はギクリと動きを止めた。
 輪の中に、幾人か見たことのない人がいる。それだけなら何のことはない。その人たちが、何か黒くて長いものを肩にかけていた。
 あれは――
「銃?」
 口にしてしまってから、ゾッとして固まる私の肩を誰かがつかんだ。
「――ッ!」
 驚いて振り返ると、男の人が立っていた。
 浅黒い肌をした、壮年の男の人。私にも見慣れた制服と帽子の姿。
「こんなとこで、どしたんだい」
 くシャリと歪んだ、しわだらけの顔がそこにあった。
「……駐在さん」
 かすれ声でようやくのことそう言って、ホッと胸をなでおろした。
「どうしたんだい、こんなとこで」と言いながら、駐在さんが跨っていたバイクを停めて、スタンドを立てる。
 集落に一つある駐在所のおまわりさんだった。この地域の出であるらしく、みんなからは駐在さんと呼ばれて親しまれていた。警察官というよりは、お巡りさんといった呼び方がとにかく似合う人で、親しみやすさでいえばそれなりの街の交番のお巡りさんよりも、仕事上の壁は低い。かくいう私も、ここへ越してきてからは何かと気にかけてもらっているのを実感しているので、今ではほかの人たちと同じように、自然と駐在さん呼びになっている。
「あの……お寺で、なにかあったんですか」
 私は、山門でたむろする人たちの方を窺いながら、恐る恐る聞いた。今しがた見た、『銃』のようなものは、私の見間違えだと、心の中で自身に言い聞かせた。
「あ~」私の問いに応じるでもなく、向こうをみやりながら、私の視線を遮るようにして、駐在さんがずいと体を滑らせた。威圧的な人ではなかったが、私よりも大きな男の人の体が、私とお寺にいた人たちの間を隔て、その様子が見えなくなってしまう。
 駐在さんは、いつもの笑みを絶やさぬままに「いやいや、なんもなんも」と、しきりにそう繰り返した。
 私を安心させようとしているのか、それとも……何かをごまかすための作り笑いなのだろうか。
「ここまでは、歩いてきたんかい?」
 私がいぶかしがっていると、唐突に訊いてきた。
 別にごまかす必要もないことなので、私は素直に答えるしかなかった。
「はい。散歩でここまで来るのが、最近の日課だったもんですから」
「ここんとこ天気も良かったからな。でもまぁ、今日はよくなかったな」
「よくなかったって……やっぱり何か」
「いや、おっかねぇことは、なんもねんだけどな。寺にいた女性からイノシシが出たって、通報があったーって、本部の方から来たもんでな」
「え?」
 駐在さんの口からこぼれ出た言葉に、私は文字通り耳を疑った。
「お寺にいた女性からイノシシが!?
 寺にいた女性からイノシシが??
 衝撃的な言葉だった。
「お寺にいた女性からイノシシが!?」
 余りにも衝撃的だったので、二度も聞いてしまった。
 私のそんな反応に、駐在さんが一瞬だけ戸惑ったような反応をみせると、急に真顔になる。
「うん、うん。そう……寺にいた女性からイノシシがでた、ってな……通報があったんでな」
 わずかな沈黙のあと、神妙な顔で絞り出すようにそういうと、視線だけであたりを見回した。
「イノシシが?」
 念を押して聞いた私に、「そうそう! イノシシがな!」と応えながら、何かのスイッチが入りなおしたかのように、駐在さんが激しくうなずいた。「まぁアンタは都会の方の人だからそういう経験もあんまないだろうけどよ、この辺じゃよく出るんだよ。困っちまうくらいな」
「よく出ちゃうんですか!?」
 驚きのあまり、思わず大きくなってしまった声に、山門の方で続いていたざわめきが止まった。口元を抑えながら、ゆっくりと駐在さんの向こうを覗くと、たむろしていたおじいさんたちが、みんなこちらを観ていた。その鋭い目つきに、刺すような敵意を感じた私の目の前で、それまでにこやかだった駐在さんの顔からも、表情が消えていた。
「出ちゃうって、どういうことですか!?」と大声で詰問する私に、おじいさんたちの視線が刺さる。駐在さんは、一度そちらの方を気にしてから両手を広げ、落ち着けとばかりに手振りのジェスチュアを繰り返した。
「どういうことっても、ここら辺じゃよく出るんだわ。この辺のまぁ、伝統文化つってもいいくらいにはな」
「文化的に出ちゃうんですか!?」
「そうなぁ。清浄さんにもほれ、鹿塚ってあるだろ?」
 そう言って、お寺の方を指さした。駐在さんの手は、本堂から少し外れたあたりの先を指していた。
「シシヅカ?」
「あぁまだ知らねぇか。奥のはじっこに、ちっこい墓みてぇのあんだよ。あれがまぁ、イノシシ供養っつーかな。この辺は昔、マタギの人らがあるってるとこだったから――」
 駐在さんの言葉は続いていたが、私の頭にはもう何も入ってこなかった。
 イノシシ供養をしているお寺にいた女性からイノシシが出てくる――。
 その衝撃的な出来事を、駐在さんはさらっと言ってのけた。
 出てきたというのは、どういうことなんだろう。
 生んだのか。それとも、あまり考えたくないことだではあるが、
「そ、それで、その女の人はどうなったんですか!?」
「おぉ! 清浄さんとこのままさんでな、いま下の病院行ってるわ」
「恵美子さんから!? イノシシが出て病院に……行った」
 ままさんというのは、お寺の住職の奥さんの恵美子さんのことだった。
「病状……っていうか、容体は……イノシシが出ちゃって、大丈夫なんですか」
「なんもなんも。ちょっと驚いて――」と言いさした駐在さんの言葉は、「おい! ゲンちゃんよ!」という野太い声に遮られた。
 駐在さんが、その声に慌てて振り向くと、いつの間に近づいてきていたのか、スキンヘッドのおじいさんが立っていた。
「おどかさねぇでくれよ、清浄さん……」
 お寺の住職さんだった。このあたりの人は、お寺のことを清浄さんと呼ぶが、ついでに住職さんまで「清浄さん」なので、時に何の話をしているのかの区別がつきにくい。けれど、この場合、清浄さんは住職さんのことで間違いないだろう。
 恰幅の良い体格に、作務衣を着た姿の清浄さんは、駐在さんと同じで、あたりに油断のない目線をくばりながら、囁くような声で言った。
「勝手に驚いたのは、そっちだろ。そりゃいいとして、立ち話なんぞしとらんで、さっさと帰ってもらわんか。もう日も暮れる」
 夕暮れ時も間近に迫り、辺りは既に暗くなりはじめていた。
「嬢ちゃんは、ままさんのこと、心配してくれてましたがよ」
「おぉ、そりゃあ、ありがたい。が、いまはうちのかあちゃんより、あんただが」
「私ですか?」
 おうと頷いた清浄さんが、眉根を寄せる。
「ゲンに送ってもらうがいいよ。駐在がこんな時くらい役に立たんがしょうがない」
 イノシシが出るとは、どういう風に出るんだろう。生んじゃうということなのか、それとも、なにか体をの奥を突き破りながら出てきてしまうとか、そういうことなんだろうか。
 私は、己のお腹を突き破って、血まみれのイノシシが暴れ出るのを想像しながら、駐在さんと清浄さん、二人の顔を交互に見ながら、冷たくなった唇をかみしめた。
「イノシシが出ちゃうって……よ、よくあることなんですか?」
「あーいや、都会の人にはよくわからんことかもしれんけど、田舎じゃよくあることでな」
「そんなによくあることなんですか!?」
「そりゃあもう、秋口はそこら中で出まくるがよ。ここら辺の日常じゃ」
「日常的に出るんですか!?
「そう、普通。清浄さんの言う通り、普通のこと」
「イノシシが出るのなんぞ、普通のことじゃ」そう繰り返し、清浄さんが、私の背中に手を当てた。「ここら辺は、結構出るんじゃ。昔から」
 背中から出る――!?
 私は戦慄した。
 そのとたん、住職の奥さんの背中の皮膚が裂け、その身肉を突き破り、背骨を割って生み出される血塗られたイノシシの姿が、ありありと想像される。
 それで住職のままさんは、下の病院に担ぎ込まれたということなんだ……。
 清浄さんの奥さん――恵美子さんは、移住してきたばかりのころから、ずっと私を気にかけてくれて、なにかと世話を焼いてくれた人だった。この集落のお母さんと言ってもいいくらいに、お世話になっている。やら若い雰囲気を指せている人で、誰にでも分け隔てなく接してくれる、まさに慈母という言葉がぴったりの人だった。そんな人の背中から、イノシシが出てしまうなんて。
「恵美子さん……大丈夫なんですか」
「心配してくれて、本当にありがとうよ」清浄さんが、私の背中をさすりながらそういった。「なんも心配いらんわ」清浄さんがそこまで言いさしたとき、駐在さんが慌てて話を遮った。
「ちょっと、清浄さん……そういうのはの若い子には……」
 と、清浄さんの手を取って、私の背中から離す。
「お、おぉ……そうだな。そうだ。いや、気を悪くせんでくれ」
 急にどうしたというのだろうか。
 いや、なんとなくわかる……。
 人間の背中から、イノシシが出るだなんて。
 過疎の地域で、そんなことがあるなどという話が出回れば、街から移住する人を募集するなどというのは、土台から無理な話になってしまう。多分これは、みんなが私から隠し続けていた村の秘密のようなものなのだろう。
 そんな話。ここに移住する前ならば、ただのオカルトじみた作り話と私も一笑に付していただろう。でも、清浄さんの奥さんの背中から、それが実際に出て、病院に運ばれているのだとしたら、それはもう――。
 凍り付いたように沈黙が支配したその場に、ひときわ冷たい風が吹いた。
 夜が来る。
「ま、まぁ! さっきも言ったように、今はうちのかあちゃんより、あんたのことを一番に考えねぇと。こんなところ、猪に出られゆうがじゃ、大ごとになる。あんたになんかあったら、それこそ恵美子に怒られっが。はっは!」
 そこまで言って、清浄さんはまたあたりに目くばせした。周囲に、何か目に見えない存在がいるかのように、しきりに何かを探るようにしている。
「会の人らが、明日から山狩りする言うてるから、これから祈祷もある。もういかねばな。さぁ、夜は山が人の世から離れる時じゃ。とくに女子供は家に入っておかんとな。あんたはまだ若いんだから、大事になってもつまらんがよ」
「わ、私にも出ますか!?」
「そりゃあ、もちろん。猪が人を選ぶもんでもないしの。だがゲンがおったら大丈夫じゃ。そのまんま、うちに帰りんさい。たのんだぞ、ゲン」
 そんな会話をしたあとで、清浄さんは、山門にいた人たちに呼ばれて、私たちから離れていった。
 もう、辺りはとっぷりと日も暮れて、どこからか漏れてきた夜気に濡れるような湿り気が混じり始めていた。暮れていく山里は、あっという間に暗闇の世界に落ちていく。逢魔が時と昔の人が言った時間が、その場に在った。山門に掲げられた行灯が灯す弱々しい光など、いかほどの価値もなく飲み込んでいく異界の時間が、山の夜だ。
 寺にいた女性から、イノシシが出た。
 その言葉を、心の中で幾度となく繰り返しながら、私は暗闇に浮かび上がる山門に向かって歩いていく清浄さんの背中を見つめ続けていた。
 自らの背中から、いつかイノシシが出てしまうかもしれない恐れと共に。
 その姿が、塗り込められたように深い山の夜に、ゆっくりと、飲み込まれるように消えていく。
 そこにあるはずの銀杏の木は、もう見えなかった。
 



「いやぁ、それにしても、アレなにがダメだったんかなぁ」
「夏の頃には馴染んでくれたと思ったっけな」
「あんとき、イノシシ出たんだよな。それかなって俺は思ってんだがよ」
「都会の人には、イノシシが出んのも、そりゃあ怖えわな」
「猟友会とかのひとら、マタギの人も交じってっけ、ちっと迫力あっからな」
「猪なんてまぁ、見えねぇだけで、そこら中あるってんだけどな」
「いやぁ、おれはよ、あん時、祈祷の後の宴会でゲンが酔っ払ったままカブのってよ、田んぼんおっこったべ? あれがよくねがったんでねぇかなぁって、思ってんだわ。そういうの気にする子だったがよ」
「いや、それ言ったらよ先輩、あんときお寺ん前で俺が声かけてた時よ、あの子の背中さすったがよ? あれがよくねぇが。都会の子は、今はセクハラに敏感なんだからよ。俺がやめさしたからあれだけど、あのあと微動だにしねぇほど固まってたが」
「清浄さん、セクハラがかよ! そりゃよくねぇが!」
「いやいやいや、そりゃあちがうが。いや、そりゃちがう」
「ちょっとアンタ! あの子にセクハラしたん!?」
「違うがよ! いや、そんなことする――」
「違うとかそうだとか、そういう問題じゃないんよ今は!もう……この人は」

 宴もたけなわの集落の年末。