まぁご存じない方も、まだ少なからずおられるかと思うので、あらためてそれらについて言及させていただきますが、その戒律というのは、
・虫を主体にした虫料理を食べてはならない(生理的に無理)
・インド現地の地元料理を食べてはならない(生理的に無理)
という、二つ。
この二つは私の人生においては、犯すべからざる神聖不可侵の掟として、広く世間に認知してもらうと同時に、その先に死という結末の待つ極限状態における食うや食わずやの二択があるとして、まず率先して死を選ぶという程度には、ささやかな個人の尊厳を賭けた誓いでもあるのだと、ここに書き記しておきたいのです。
あえて言っておきますが、私はキリスト教的価値観で育った人間であるために、自死というものが、その罪をぬぐうことのできないほど重い罪であり、絶対に忌避しなければならない禁忌の行いであると認識しているのですが、昆虫食とインドでの食事を強制されるということは、そのタブーを乗り越えて死を選ばざるをえないほどに、全き嫌悪の対象です。
この二つを断るに、たとえ親の命がかかっていたとしても、断固として拒否する。
これら戒律がどのようして成立したのかという点については、『言及するだけで吐いたことがある』というレベルなので、これ以上のことは書きませんが、それだけ心に傷を負っているということを、皆々様方には認識しておいていただかねばなりません。
もし万が一、これらの戒律を故意に犯させようと画策する邪慳陋劣な人間がいるとしたら、容赦なくぐーでぱんちする。ちなみに、『ぐーでぱんちする』というのは、「殺さざるを得ない」という意味の日本語的謙譲表現ですので、甘く見ない方がいい。
ちなみに、日本で食べる自称インド料理は嫌いじゃない。
これも覚えておいてください。カレーライス(日本)は大好き。
ネット上には、『何が嫌いかより、何が好きかで語れ』というルフィの名言がミームとなって久しいですが、これもまたおかしな話です。
個人的な考えなのですが、好きという感情は『赦し』の一種だと思っています。
本来は、ゆるぎなく在る『私』という個人の存在、身体、記憶、感情の中に、あなた(人・モノ・出来事等)が入り込むこと、そして肉体や意識の中に存在することを許し、我の精神の一部を侵犯、占有するということに対して、積極的な赦しを与えるということが、つまりは『好きだ』という感覚と、それを受け入れるための準備となる『好印象』という感情なのです。
反して『嫌い』という感情は、対象となるものが私の中に存在することを許さないという、拒絶の感情であると考えます。
おまえ(人・モノ・出来事)が、私の中に存在することは一ミリも許さんし、お前が私にもたらした嫌悪の感情が、胸の内にわだかまることそれ自体が罪であって、それ成したお前を赦すつもりはないということが、「嫌い」という感情の根本にあるのです。相容れぬというのでは生ぬるく、それをもたらしたこと、そのものを厭悪して、たとえどのような手段(例:ぐーでぱんちする)をもってしても、それらを我が人生の道行きから排除しなければならんという感情が、「嫌い」というものなのです。
私の生きている道に入ってこないでほしい。
それが、昆虫食であり、インドでの食事です。とくに南部です。と書いているだけで、マジで頭痛がしてくるレベルです。
もうしばらくのこと、パスポートは更新していないんだよ、クソが。
昆虫食とインドは、私の視界の中に入ってこないでほしいんですよ、ほんと。