2022年11月3日木曜日

自分から戦争しかけたくせに、ウクが悪い~ロシアは平和たのめに努力してる~って、謎にアピってくんのがウゼーよな。

 おめぇが先に殴りつけたこと知らねぇやつなんかいねぇよ!

 ロシアが勝ったif戦記書いてプーチンに読ませてご機嫌取ったら、なんか大統領補佐官とかになれねぇかな。なれねぇか。
 ちなみにそのif戦記では、日露戦争での講和条約で、大陸の沿海州とシベリア地域が日本に割譲され、ユダヤ人自治区として樺太が提供される。第一次世界大戦後、ロシア革命勃発を好機と見た当時の日本政府は、虐げられていた少数民族を解放しながら、バイカル湖までをその支配下に置くのだった。これを受けてバイカル以東のロシア勢力のいがみ合いは一時棚上げされ、各勢力の民族的団結は強まることとなる。内戦が勃発するかと思われた矢先の団結により、その混乱をついて勢力を広げたいという日本側の思惑は外れることとなるが、少数民族の協力を取り付けることに成功していた軍部は、すでにシベリア地域に協力な兵站網を整備していたために、これらの反攻に漸時対応し、バイカルまでの支配力を強固にしていくのだったという内容。大日本帝国がウクと代わりに戦ったるわ。ええじゃろ?
 内容には責任を持たない。持ちたくない(最低だ)

 かねてから、絶望的に数学的センスがないということは言ってきた。
 それと根を同じくする経済学というものに関しても、あまり知識はない。
 おそらくは広い世間に一定数いるであろう『円安・円高』のどっちがどっちかすぐにわからん系一般人に属している人間なので、今般の円高? については、所感を述べるにしても「よくわからん」以外にない。

 倉井が読んだことのある経済の本は、クレフェルトの『補給戦』とホーストの『戦争の経済学』の二冊くらいしかなくて、これらに関しては普通に面白かった。
 経済というよりは戦争の本なのだが、どちらも「戦争というのは、経済なのだ」ということを語った本である。
 クレフェルトの『補給戦』は、軍隊を悩ませる補給=兵站の問題を、16世紀の戦争から第二次世界大戦まで、豊富な実例と数字を挙げながら論じた一冊で、これさえ読めば、兵站の問題を軽視した近代型軍隊には敗北の結末しか待っておらず、そのものずばりでウクライナ戦争を始めたプーチンには、始まる前から負け戦しか用意されていなかったことがよくわかる。
 『戦争の経済学』は、これ一冊を読んでおけば、ウクライナ戦争の結末として、プーチンは死ぬしかない、ということがよくわかるので、皆様に是非お勧めしたい。
 もちろん『戦争の経済学』に、そういう内容が書いてあるわけではないが、この本を読んでしまうと、リアルの戦争では先手側が負ける確率が高いという直観が、経済的な観点から補強されるし、アメリカ以外の国は、国家総力戦になった時点で敗北が決定するという当たり前のことがわかる。
 この当たり前の『国家総力戦』がわかっていなかったことが、日本が敗戦国になった理由であり、プーチンが死ぬしかないという結末に繋がっている。
 国家総力戦を理解していないということは、戦争と経済がどう結びついているかを理解しておらず、それはつまり、戦争という行為を正しく考えていないということである。

 そもそも国家総力戦というと、日本人にとっては第二次世界大戦の悲劇が思い起こされる。この言葉は私たちからすると、『国家的ジリ貧』の言い換えとしてしか、理解されていない。すでに退路を失った戦争国家が、欲しがりません勝つまではの精神で、ないない尽くしを戦い抜く、といったような意味合いしか持たされていない。しかしそれは、『日本がそうであった』というだけで、国家総力戦の中身とはまた違う。
 
 国家総力戦とは、一つの国家が、ひとつの勝利を求めるために、ありとあらゆる経済力を注ぎこみ、それをかなえるための生産力を維持する行為のことだ。
 国家の経済をフル稼働して戦争行為をするということだが、普通の経済と違うのは、それによって生み出されたものは、消費されることによって消えてしまうという、その一点にある。
 経済というのは、人や物の循環する仕組みに損益を絡めた概念だ。
 しかし、戦争というのは破壊行為によって生まれる損益の概念だ。
 経済の中にあるものは、戦争によって破壊されると、その循環の中に立ち返るのは難しい。
 銃弾は撃てばなくなるし、戦闘機は撃墜されれば役に立たなくなるし、戦艦は撃沈すると……まぁ漁礁になって魚の住処になるくらいの役には立つだろうか。しかし何千億円という高額な費用をかけて沈められた漁礁というものが、漁業とスクーバ観光によって利益を生み出すには、仮に人類社会が永劫の時を営めるとしても、数万年の時間がかかるに違いない。
 これら物質の消費に加えて、戦争はさらに『人的資源』を消費する。
 一部小説・マンガ作品などによって陽の目をあびることになったこの四字熟語も、実際にそれらが意味するところを深く考えるなら、デグレチャフどの~(cv.中上育美で)などと笑って、ガルパンとタンクデサントコラボやればいいのにとか気軽に言ってはいられない。
 人間は、銃で撃たれれば死ぬし、爆撃されれば死ぬし、艦とともに沈めば海の藻屑にしからならない。そうして、大いなる魂の循環に加わった人的資源は、生きている人間の経済的循環からは、外れてしまうことになる。

 戦争というのが消費行動であるというのは、説明をされなくても、なんとなくわかると思う。
 では、その消費するためのモノを作るのは誰なのか。
 それもまた、人なのである。
 人的資源というのは、何も鉄砲玉で死んで来いという、人間軍需物資を現した言葉ではなく、それこそが社会を運営するためのリソースであるという、人類社会を俯瞰的立場から評した言葉だ。
 人類社会というものは、人類という言葉が指すとおり、何はなくとも人間が必要なのである。食べ物も、機械部品も、薬も、服も、電気も、水も、およそ人間が生活するときに必要なものは、すべて人間自身が生産しなくてはならない。もちろん、軍隊で使うものも、『人間が、生産しなくてはならない』のだ。
 さらに、その戦争のために生産されたものを使うのも、人間=兵士だ。
 戦争を行うと、その兵士が消費される。戦争によって兵士が消費されるというのは、つまるところ戦死であり、つまりは、永遠にその存在を失うのである。この資源は、残念ながら、リサイクル不可能だ。食料か、もしくは兵士が生ると噂のロシア伝統の秘密の畑の肥料にはなるかもしれないけど。
 しかし残念なことに、ロシア以外の人間社会では、戦争のために生産されたものの多くはリサイクル不可能だ。それは、無慈悲なまでに徹底的に破壊される。徹底的に、リサイクル不可能なまでに。
 経済という循環から外れた人やものが、戦争という行為で消費されると、どこに行くのか。わかりきったことではあるが、これらが経済の循環に戻ることは、ほとんどない。戻れるのは、かろうじて、奇跡的に、戦争で失われることのなかった人と、破壊されていても関係ないものだけが、そのサイクルに還っていくのである。

 失われるために作る。国家のすべてを賭けて。
 それを、より多く、より長く続けた方が勝つ。
 それが、国家総力戦ということだ。

 全くバカげた言葉である一方で、そんなことをやれる奴が、どこにいるのか。
 って話になると、アメリカならやれる。
 いや、実際には、アメリカくらいしかない、というのが世界の実情だ。
 アメリカは、世界で唯一、戦争のための資源と食料の両方を自国で賄える国である。
 近年では力をつけてきたと思われがちな中国ですらが、食糧自給率の圧倒的な低さで、糧食の調達に解決の難しい問題を抱えている。台湾進攻が無理筋であるのも、これが理由だ。台湾に攻め込むための兵士を賄う食糧がないのである。古式ゆかしい戦場の仕来りに則って現地調達しようにも、当然ながら、台湾にもない。そもそも中国は、アメリカからの食料輸入が止まれば、数か月で干上がる国なのだ。

 といっても、アメリカがやれるか、というのも怪しくなってきた。
 ウクライナ戦争が起こってから、アメリカの経済状況は著しく悪化している。
 理由はいろいろあるが、大きな原因は、賄えていたはずの食料生産が、気候変動によるものと思われる異常気象の影響を受けて、計画通りに行えていないというのが大きそうだ。
 国民を賄える物資を生産する体制がとれるアメリカも、実際には、地球規模の変異や経済活動の拡大には対応できていなかったようだ。
 そうまでして難しいのが、経済を回しながら戦争をする、ということなのだ。
 第二次世界大戦のころからさらに時代が進んだ今、アメリカさえもが、戦争と経済の両立に苦しみ始めている。
 
 そんな中で行われたロシアによるウクライナ侵攻だけれど。
 この戦争で、総力戦を行っているのは誰?
 という、この単純な問いかけに、即座にウクライナであると答える人も、戦争という行為を正しく考えられていない人である。
 まぁそんな人はいないと思うのだけれど、政治政党の日本維新の会の鈴木宗男氏や関係者の橋下徹氏などの言動を見ていると、どういうわけか、ウクライナに早く降伏しろと迫らんばかりの発言が多い謎のロシア贔屓勢力ロシアヴィキ(ボリシェヴィキみたいな雰囲気出る)だから、そう思ってそう。

 ウクライナ戦争において、ウクライナはロシアに国力を削られているが、ロシアは事実上の国家総動員をかけて、自ら国力を磨り減らしている。
 総動員令においては、国家の体力のもとになる人的資源を戦争という行為に振り分ける必要がある。ロシアは今回の侵攻で国際社会との経済的なつながりが絶たれてしまって、人やモノの生産に支障をきたしている面がかなり大きい。それは、経済制裁というだけの話ではなくて、自分たちの軍隊の武装を、平素、優秀な兵器であるとしてアピールしていたにもかかわらず、自軍と比べれば、ほとんど非武装と言っていいくらい格差があったはずの初期ウクライナ軍を捻じ伏せることができず、戦争のむやみな長期化を招いたことによる、ロシア兵器、そしてロシア国家への不信の表れとしてもたらされたものだ。
 そのようなことがあり、ロシアは現状では、国外からの資金や物資の調達が不可能となり、それらを自国の人的資源を使って賄わなければならなくなっている。ロシアは豊富な地下資源を抱えている国ではあるが、地下資源があるだけでは、国家運営は不可能だ。ましてや戦争ともなれば、素材だけあっても意味はないのである。それらを加工し、使える道具にするための加工が行われなければ、砂利の積みあがった無価値のボタ山と、そう変わらないのだ。
 天然資源でできた高価格のボタ山を、金銀宝石よりも貴重と呼ばわるために必要な人員は、しかし続々と戦地へ送られていて、そうでなければ続々と逃げ出している。
 30万人の予備役募集というスローガンは、早々に嘘であると喝破され、拉致まがいの徴兵は100万人規模なのではないかと推測されて、募集打ち切りの発表は、国外へ逃げた卑怯者を呼び戻すための策略であるとうわさされている。

 戦争と、それらを遂行するための物資の調達というのは、結局は国内の生産リソースの奪い合いということに他ならない。それらをどう平衡させ、かつ強力な軍隊を維持して、戦争を遂行するかが問題なわけだが、国家総動員が難しいのは、つまりは、ここだ。
 当然のことながら、戦争というのは人のするものである。
 人がしなければ、それは戦争でもなんでもない。我が家の犬が、隣家の犬と吠え合っていても、それは戦争ではなく、ワンちゃんたちがじゃれ合っているにすぎない。まぁ、ワシんち動物飼ってないから、そういうことがあるかどうかはわからんのだけど。
  戦争をするのが人であるというのなら、戦争をする兵士は、国民から選別しなければならない。現代の戦争では、民間軍事会社などをはじめとした傭兵さんたちを雇って戦争することもできなくはなさそうだが、それでもやっぱり、自国の兵士を調達する場合の原資は、おおよその場合が自国民だろう。しかし自国民を兵士にすると、兵士の使う兵器を生産するためのリソースが減ってしまう。だが、軍服などの軍需品を含めて、物資を生産する人たちがいなければ、兵士の装備は満足に揃えられないことは、自明のことである。
 あ、でもこれは150万着の軍服を生産してたけど、横流しでゼロだった国には関係ない話でした。ごめんなさい。ごめんねえぇええええええええええええ!
 そういうわけで、一般的な場合においては戦争をする場合には、戦争をする人と戦争を支える人の両方が必要なのである。一方を満足させるために、一方を厚くすると、他方が薄くなってしまう。人的資源というものは、一見天然資源であり、無限に増えていくような錯覚を覚えてしまうが、しかしその増加ペースはひどくゆったりとしていて、増加したとしても、最低限使用に耐えうるまで十五年かかり、そこから最低限使い物になる兵士を育てるには、だいたい三年くらいはかかるものだ。現時点で百万人いたものが、次の日には二百万人なるというような便利な資源ではない。
 戦争状態という、すでにある緊急事態にその資源を使用するには、有限であることを前提に考えるべきものなのである。
 戦争は、全部人がやるのだ。
 国家総動員だろうがなんだろうが、人間がいて初めて成立するのである。
 人間が戦わなければ、戦争はできない。
 だが、戦争するための装備を整えなければ、戦争には勝てない。
 このジレンマをどう解決するか。
 しかも戦争というのは、一方通行の消費行動であるので、これらは使ってしまえば使った分だけ失われるし、失われたものが取り戻されることはほとんどない。取り戻されることはあったとしても、それらは通常、戦争が終わった後で、長い年月をかけて行われることで、戦争中に取り戻されることなどほとんどない。
 しかも前述したが、ロシアの軍隊指導層の感覚では、伝統的に兵士は畑から収穫するもので、その命の重さは日々、口にする黒パンのひとかけらくらいにしか、意味がない。この人たちは、今まで食べたパンの数を数えることはしない人たちだ。湯水のごとくというには生ぬるい、彼らにとって兵士とは、石臼で挽かれたライムギ粉の一掴みほどの価値もない。パンの枚数にこだわった悪の権化の問いかけは、ロシア人に対しては生ぬるい質問だったというしかないだろう。彼らは、自分たちの指揮する兵士たちのことを、パンを作るための麦の粉とすら思っていないのである。それが、自分の血肉になるとは露も思わず、それが社会における有限で、貴重な存在であるなどというのは、当然ながら、想像の埒外なのだ。
 だから、一方的に消費できる。
 一方的に消費して、消費した分をどうするかということは、考えていないのである。
 かつてソヴィエト連邦では、第二次世界大戦とその後に失った人的資源は、二千万人に昇ったという。経済という観点からは、無為に消費された莫大な人的資源は圧倒的なマイナスとして作用した。ここで自らたたき出した膨大なその損を、結局はソヴィエト連邦崩壊まで取り戻せなかったのである。
 人的資源の損失は、極力抑えなければならない理由はここにある。
 長期的に見れば、人的資源の損失は国家としての質の低下を招くことになる。
 一時期の、歴史の局所的な部分をだけとりあげれば、彼らは宇宙開発などで米国よりも先んじていたように見えるが、その実態は、早々に破綻していた。六十年代からのちには、それ以上の技術的革新はもたらされず、社会の変容もなく、ただただ疲弊していった。共産主義というものを建前にして国民を統制していたために、社会的知見の集積が成されず、ペレストロイカ(改革開放政策)も機能しなかった。
 ソヴィエト連邦は、必要のない犠牲によって人的資源を失い、それを補うために、社会の多様性を捨てて、なんとか四十年という時間をやり過ごしたに過ぎない。
 戦争を求めるものの、そこで戦う自国の兵士たちの犠牲を少なくすることを、常に念頭に置いてきたアメリカとは、まるで正反対の歴史を歩んでいると言えるだろう。
 その結果が、わずか40年という短い歳月での、国家の崩壊という形で現れた。
 共産主義の限界と言われるソ連崩壊は、実際の部分では、人間の扱いに失敗した結果であると思う。(この辺完全に根拠なしの主観なので内容がフワフワ~
 今度もまた、ロシアは同じ愚行を繰り返している。
 
 では、ウクライナの方はどうか、という話になるが。
 ウクライナは、本当のところは、ロシアと比べるような状況ではない。
 ウクライナは、国家総動員という状況にすらなっていない。
 戦時下であることは間違いないが、ウクライナは、侵攻を受けた側でありながら、ほとんど平時と同じ状況であると言っても過言ではないのだ。
 なぜなら、ウクライナは戦争に必要なものを、何も作っていないのだ。
 自分たちで作って、造って、創って作りまくるのが、国家総動員である。
 では、軍需物資のすべてを、欧米や先進各国に頼っているウクライナは、そうであると言えるだろうか。彼らは、人的資源そのものに恵まれているわけではないが、しかして、カツカツで戦ったかつての旧日本軍のように、ないない尽くしで戦っているわけではないのだ。
 メシが来る。兵器は来る。弾薬も来る。国際社会の支持もある。自分で用意するのは、兵士だけ!
 これは、国家総動員でもなんでもない。
 本来なら、生産に宛てなければならないリソースを、すべて兵士に充てられるのだから、これほど楽なことはない。
 
 ロシアは国家総動員なのに、ウクライナは全然総動員じゃない。ロシアもこの事実に早くから気付いてて、「国境越えたら核」と脅しをかけていたんだけど、小国相手の侵攻で大国側が核を脅しに使ったら、中国ですら支持できなくなるという落とし穴にはまったプーチンが無様すぎる。
 自ら用意したウクライナという食料に、ナイフを入れてから、ウクライナという食材が、実は自分が知らされていたジャンクな食べ物ではないのではないかと、そこでやっと気が付くとか、独裁者憐れすぎるわ。

 まぁなんか、いろいろぐだぐだ書いてたらなんか落ち着いてきたから、この辺にしといたるわ(意訳:飽きた)
 今度から、見切り発車で書き始めたものの、途中で飽きてしまってどうにもならなくなるという現象について、ウクライナプーチン効果って呼ぶことにするわ。(最低だ)