2022年10月30日日曜日

【小説】ほしのうみにおよぐ。 『サリエッタ・サリリエリ』

 暗闇から連れ出されると、目の前が白一色に染まった。
 突然のことに、濃い霧のただ中に放り込まれたかと錯覚したが、やがてその光の洪水に目が慣れていくと、ゆっくりと、そしてはっきりと、乳白色の淡い光に縁取られた世界が浮かび上がってきた。
 そこは広場だった。発光する鏡のような地面が、どこまでも遠くに広がっている。
 
 漁船に放り込まれて、どこともしれぬ海上に向かって走っているはずではなかったのだろうか。
 疑問が湧いて、できる限りに首を動かした。
 頭の奥で、虫の飛ぶような音がする。
 しかしわずかばかりに視線を巡らせてみても、見えるものは、ほんのわずかしかなかった。
 どこまでも視界を満たす、直視できないほどに光り輝く床はとっぷりとミルク色をして、その隣には、絶望を塗り込めたようにどこまでも深いブラックコーヒーのような黒色をした空が怜悧な重しとなって横たわる。そして、二つを分けるその境目が、視界を縦真一文字に引き裂きながら走り続けていた。

 それはまるで、仁晴の人生みたいだった。
 ある日を境目にして、社会性産業廃棄物への道をまっしぐらに進んだ仁晴。
 なにが人とゴミを分けるのか。
 ゴミの分別は、いかにしてなされるのか。
 誰がそれをするのか。
 誰がゴミと、ゴミと、ゴミでないものとを分けるのか。

 それらを意識の外へ追いやることができなくて。
 一文字の境目がどこにむかっていってしまうのか、ぐるりと視線をめぐらせていく。
 どこまでも、どこまでも、どこまでも続いていく一本の線。
 手繰り寄せるべき人生の道筋が分け隔てたもの。
 せかいのはじは、どこにあるのだろう。
 虫の鳴くような音が、どこからか絶え間なく聞こえてくる。
 やがてその世界のはじはゆっくりと湾曲し、反対側から同じように伸びてきたもう一本の線と合流し、やわらかな弧を描いて、その先の、さらなる世界のはじにむかって伸びていった。
 湾曲する世界。遠い遠い向こうのことであるとはいえ、世界というのはあまりにも狭いようだった。
 だがしかし、世界のはじは、終わらなかった。
 終わっていないのだとすると、あれは一体なんなのだろう。
 だが、キミハルは知っているのだ
 あれが世界の終わりでないとするなら――船の舳先なのだということを。
 その向こうで、おもおもしい衝撃音とともに水しぶきが上がる。荒波が船の側面をたたいてか、空を仰ぎて刹那の雨と姿を変えると、超局所的なスコールとなって光る床面に降り注いだ。
 どうやら、そのようだった。
 気が付けばすでに水びたしのあたり一面に、無数の波紋が生まれては、それらが競うように広がって、わがもとに小波となって打ち寄せた。緑色をした海水は、美しく澄んでいた。
 見慣れない光景ではあったが、ここが、船の上であることは間違いなさそうだった。

 外に連れ出されたということは、来るときが来たのであろうか。
 頭の奥で、虫が鳴くような音がする。

 ――しかし。
 ――そもそも。

『来るとき』というのは、なんであったろうか。

 私は港にいて。

 簀巻きにされて船に乗せられ、社会性産業廃棄物となってここに運ばれていたわけで、それの行きつく先は――。
 漁場であったか。
 それとも……。
 それとも、の先にある言葉が見つからなかった。

 なんだったっけ。

 それとも、ゴミ捨て場であったか。

 そう、ゴミを捨てに行く途中だったのだ。
 キミハルというごみを捨てに行く途中。

 けれど、あの港にいた船は、こんなに大きな船だったろうか。
 一つの疑問が解決しては、また次の疑問が湧きおこる。止めどのない記憶の奔流が、どこか遠くの虚ろなる場所からやってこようとしていたが、その流れをとどめたのは、頬に当たってはじける、乾いた刺激だった。
 気が付くと、透明な波の合間に、珠の碧石をちりばめたような輝きが瞬くエーテルのあぶくが、辺りをいっぱいに満たしていた。
 その光を見るたびに、視界を緑色の筋が走査線のように走っては、消えていく。
 ノイズの走り方が、相変わらず、よくない。エーテルセンサーの調子は戻らなかった。
 そんな言葉が脳裏に思い浮かんだが、耳元でがなるような声がして、すぐにかき消えた。
「はやくしろ、トリハローネ! イルカが逃げちまうだろうが!」
 耳元で聞こえたはずの声を捉えて、視線が動いた。
 その声の主は、驚いたことに、豆粒だった。
 いや、豆粒ではない。
 声の主と思われる人物が、あまりにも遠くにいるために、豆粒のように見えたということであって、それくらい遠くにいたということの比喩であり、あれは決して豆粒なんかではない。
 驚愕と、そこから沸き起こった焦りによって、一瞬背中に冷たいものが走ったが、呼びかけてきたそれは、色味としてはホワイトがかった黄色をした生豆系の見ためをしているだけで、焙煎されたコーヒー豆というわけではなかった。
 焦るな。
 わが心に呼びかける。
 焦ることはない。
 コーヒー豆になる権利も、そうなるために焙煎される権利も、まだ誰のものでもない。
 なぜなら、あれは豆粒でもなんでもないからだ。
 胸の内に沸き起こった、『麻袋に詰められる者の矜持』をいま一度確認しながら、キミハルはそれに目を向ける。
 やはりあれは、豆ではなかった。むしろどちらかといえば、人間のように見える。
 人間だとすれば、あれは誰だったか。
 あんなイエロー系の明るいカラーコーデの人間が、いただろうか。
 どちらかと言えばブラックという人間性の人物しか、この漁船には乗り合わせていなかったように思う。一人は白のワイシャツに黒のジャケットで地味にまとめたぼんやりした表情の人で、もう一人の方は、体型にぴっちりと合わせたソリッドの黒シャツ――の裏地がヒョウ柄という、日本人的チラ見せ文化の最先端を行く着こなしをしている人だったが、この二人がブラックなのはその姿かたちではなく、経営する会社がブラック企業だったとかいうことでもなく、そもそもの生きている世界がブラックな社会の人たちだった。
 ブラックな社会の人たちだから、威圧的かと思えばそうでもなく。
 にこにこ笑顔で暴力をふるうタイプのブラックさだった。
 明るい職場に生きていそうだなって。あの日も思っていた。

 あの時、あんな人は、いただろうか。

「おい! ボケっとしてんな! 撒き餌はもう撒き終わってんだぞ! 今日の晩飯が逃げちまうだろうが!」
 女の声がする。あの生豆が発する声だろうか。
 その声に応じるようにして、原沢が歩き出すと、ざぶりとやわらかい音がして、小さなしぶきがあがった。
 原沢の足が、碧水を蹴立てて進むたび、その引き波が浴びるようにキミハルを濡らした。そして、その脳裏に向けて、パチパチと絶え間ないノイズが打ち寄せる。そのたびに、目の前の世界は小さなエメラルドの焦熱に満たされた。

 そのフラッシュが瞬くたびに、キミハルの意識はどこか明晰さを増していくようだった。
 世界が美しいものであることを、今この瞬間、刻々とわからされている。
 そうであるはずなのに、光を一つ、二つと数えるごとに、どこかの頭の奥に重たいものが縋り付き、それが数を増すごとにうなりを立てて、湧きたつ魂の重しとなって、どこか空に向かって沈んでいくようだった。

 その世界に浸っていると、視界が急に明度を下げた。
 それは、単純に露出が適正な位置にまで補正されただけのことではあったのだが、それによて世界が光を失ったのも確かなことであり、それはキミハルの精神が現世へと下向した瞬間でもあった。
 そこに『在るもの』を映しただけの世界が、急激にその存在を取り戻していく。
 すると何かのシルエットがまたも赤いラインによって強調され、そこを注視すると、さきほどと同じように、視界が何かの動画でも見ているかのようにしてワイドビューになり、そして『それ』をズームアップした。

 それは、人だった。
 人だと思う。

 金色をした髪を、三つ編みにまとめて垂らした色白の――人。

 そいつが、ものすごい形相で、こちらを睨みつけていた。
 肉付きの薄い頬に、筋を引いたような鼻梁。紫色をした唇が浮かぶようにして張り付いている。えぐるように深いくぼんだ眼窩には、ぎょろりとした大きな目が嵌り、その瞳は、さらに深く、その先の深くまで潜っていくような、濃い青色をしていた。
 一見するとヨーロッパ系の外国人のようだったが、それは正しくない気がする。

 男か女かもよくわからない。
 あれは、男とか女とか、そういった価値観で分類できる生物ではない。
 気がする。
 そもそも、この人物とさえ言い憚る『誰か』は、自分の中に確としてある『人間』としての条件を満たしていないような気さえする。

 原沢のような独特の個性を持った風貌をしているわけではなく、あくまでもキミハルの思い描く標準的な人間としては、その存在が成り立っているような気がするが、それでもなんとなく、あれが人間であるかどうかについては、確かにそうだ、と断言することができない。

 二足歩行しているが、二足歩行する人間ではない動物というのは、結構いる。
 人間になれなかった猿はもちろんのこと、猫だって熊だって二足歩行するし、猫熊だって二足歩行する。
 逆に、二足歩行している人間の中にすら、動物のような輩というのがいるのだ。
 動物同然の奴らが――。
 だから、二足歩行は、キミハル自身がすでにそうであるように、それがそのまま人間と呼ぶべき条件であるとは言い切れないのだ。

 パッと見。
 ズームアップした画面いっぱいに映る、人間的な恰好をしたこの生き物は、人間と同じ形はしている。
 原沢と同様、二本の足に二本の手がある。
 さらに原沢とは違い、ちゃんとキミハルと同様の位置に、顔がついている。
 顔と思われるものが、ついて、いる。
 これだけならば、まさに人間といっていい条件はすべて満たしているように思えるが、しかし、人間である条件というのはなんだろう。
 よくわからなかった。
 こちとらなんぞ、いわゆる五体満足という状況にありながら、すでに人間ではない。海洋投棄される社会性産業廃棄物なのである。
 しかしそれでも、原沢同様、手があって足があって顔があれば、人間でいいような気はする。パーツのついている位置に関しては、この際、目を瞑ろう。

 パッと見。
 白い。
 あまりにも白い。
 白皙などというものは既に通り越し、その皮膚はクリスタルのように透き通っている。
 青い血管が体中を走っているのが、よくわかる。
 そのせいもあって、顔は白いというよりも、青ざめていた。
 左右の首筋には、幾つもの切れ込みがはいっていた。時たま、ぱくぱくと息をするように空いたり閉じたりを繰り返すその奥には、鰓葉を模したと思われる赤く濡れた扇のようなものが見え隠れし、「メシだよ! メシ!」と、餌を求めて狂ったように叫び散らす口元からは、凶暴なまでに鋭く尖った歯が見える。峻厳なまでに鋭利な頂を並べるその歯には、噛み合わせがすこぶる悪そうだった。
 変わった感じの人――という印象が第一に滑り込んできたが、キミハルのように、コーヒー豆になりかける社会のゴミでありタンスも兼ねているような存在ですらが、人間と呼ばれるカテゴリーに入るのだから、顔色の悪さも噛み合わせの悪さも、些細な問題のはずだった。

 パッと見。
 白いブラウスと半ズボンを着用している分、麻袋の中で真っ裸であるはずのキミハルよりも、文明的な存在であることも確かだ。
 しかし何を怒っているのか、歯茎を剥いて怒りをあらわにするその様子は、サル山の上で自らの権勢をフレーメン反応によって誇示するボス猿のようだった。
 するとあれはもしかしたら、この漁船の船長であるかもしれなかった。
 ボス猿なのではなく、漁船の船長であるとするならば、大海原の勇者、勇敢な冒険者であり、この人たちを複数用意することができれば、山を登ることも不可能ではないという、まさに人類におけるチート級の人材である。
 しかも、ゴミを海に捨て放題だ。
 類人猿が海洋進出すると、これほどすごいのである。
 海に行くと山が昇れるようになるのは、おそらく猿だけの特権だろう。
 すごい。

 となれば、ここまでで考えられることは一つ。
 
 あれは――白沢だ。
 そう、白沢であるとしか考えられない。
 歯茎を剥かんばかりの興奮状態をみせてはいるが、やはり、あまりにも白い。
 肌が白ければ、ブラウスも白い。
 纏うものみな、やけに白い。
 これは間違いなく白沢の特徴だった。
 
 白沢であるということがわかってしまえば、その姿を見たときに感じる不安感も、何も問題はなかった。
 なぜなら、白沢は漁師であったはずだから。
 どういう理由でそうなったかは知らないが、彼らの一人として、そこにいたから、私は知っているのだ、白沢という人がいたことを。
 
 漁師のかしらであるはずの白沢のもとにたどり着くには、結構な時間がかかった。
 港で乗り込んだ時には、こんな小さな船で沖まで行けるのだろうかと不安になったものだが、意外なことに、キャビンに押し込められている間に船も成長したのだろう。
 世の中のすべてのものは、成長するのである。
 進化し、伸展し、どこまでも膨張していくものなのである。
 だから、こんな風に大きくなることもあるだろう。
 キミハルにも、きっとこんな風に輝いている未来が、あったはずだった。
「ヤク抜けしたんだろうな? まったくこんな時にチャンポンなんかしやがって」
 こちらを覗き込みながら、キンキンと響くような声をした白沢は、自らが少なくとも『豆』ではないと主張するかのように、喚き散らしていた。
 キミハルの知識によれば、豆は植物の種子であり、コミュニケーション方法として音声を採用していなかったはずなので、そうであるとするのは難しいだろう。
 だからこの目の前の生豆みたいな色合いの喋る魚介みたいな人も、きっと豆ではない。
 キミハルと同様に。
 
 しかしあいかわらず、キミハルは声が出せないままだった。
 人間か豆かを隔てる瞬間が、発声器官の有無にあるとするならば、どちらかといえば、キミハルの方がお豆に近い。
 やはり焙煎権(される側の権利)は、キミハルがつかみ取るべきものとして用意されているようだった。
 その方が、海に捨てられるよりまだましだ。
 藻屑と消えるために海に投げ入れられるより、火葬されてお墓に埋葬されるほうが、まだ文明的ではないか。

 そうしたかった。
 そうさせてあげたかった。
 なぜなら。
 どことも知れぬ海の向こうに向かって、彼を想うことは、私には無理だったからだ。
 ここにはもう帰ってこないのだと、わかっていてはいるのだけれど。
 仁晴は今しあわせですかと、広い海に向かって問いかけたとして、果たして誰がその答えを教えてくれるのか。
 海は返事をしてくれない。
 風はうなりを強くするだけで、何も語りかけてはくれない。
 誰も、仁晴の声を、届けてはくれなかった。

 だからこそ。
 この海を絶望の赤茶色(濃くするとコーヒー色になる)に染め上げてでも、キミハルはコーヒー豆にならなければならないのだ。

「モードル、さっさとトリハローネをぶち込め! ちょうど群れが来てるんだ! ナブラが見えるだろ!」

 白沢が、足を上げ。
 地団駄を踏むようなポーズで何かを叫び、やたらに腕を振り回し、船の向こうを指さすその姿は、どう見ても人間のようだった。
 しかしその姿を見れば見るほど、胸の内に小さな不安が溜まっていく。みれば見るほど、白沢は、人間でないような気がしてくる。
 むしろ、闇夜を背景にして輝く深いサファイアの瞳には、海の底でうごめく深海魚のように、不気味で、理解不能の虚無の瞬きを感じる。

 白沢は、人ではないのではないか。

 うっすらと、そんな想いがたまっていく。
 
 頭の奥で細かい金属音がいくつも鳴った。
 また

 ∇
  
 が目の前に浮かぶ。
 あ、ナブラってそういこと?
 違うかも?
 しかし浮き上がってきた

 ∇

 は、キミハルの確信を強調するかのようにして深海魚顔をした白沢を勢いよく縁取っていくと、ふたたび幾つもの文字列を視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……視界一杯に……

 表示した。

 ふしぎなことではあるが、キミハルは、その文字が読めた。
 原沢に引きずられているときには、まったく意味の不明だったそれが、何がしかの意味を持っていることが、素直に読み取れた。

「てめぇ、まだヤクでぶっ飛んでやがんのか! わけわかんねぇこと言ってねぇで、さっさと今晩の晩飯取ってこいよ! イルカだぞ!」

 キミハルに怒鳴りつけてくるのは、白沢だった。
 白沢だったか。
 白沢?

「さっきからシラサワ、シラサワってなんじゃ! このサリエッタちゃんを目の前にして、なんの話しとるんじゃワレェ!」
 
 白沢が怒っていた。
 白沢は白沢なのに。
 何を怒っているのか意味不明すぎる。

「はぁ、シラサワって私のことかよ! って、深海魚って、だれがじゃ!」

 誰も何もない。
 金髪で白い肌をした、魚のようなぐりぐりとした眼をした白沢、その人のことだ。
 声を出せないことがもどかしい。

こんどのモジュールはそういう感じか? 脳筋ビンダーのくせに、おりこうさんのフリすんじゃねぇ! 中身の腐り具合は、ここ何年かでも一番だったみてぇだな。コヤモスの野郎も、ついにヤキの回った商売するようになったか。
 でもまぁ、まぁまぁ……いいんじゃねぇか。まぁなぁ、私もまぁまぁ深海っぽいとこあるけどなぁ。まぁ私は海族だからまぁ、そういうなぁ、そういうなぁ……まぁビンダー人にも、そういうの、まぁわかるようになってきたかぁ」
 
 ぷいっと背中を向けた白沢が、「これだからよ~もうジャンキーはぁ~」と言いながら、その背に浮かれの色を帯び、二言三言と油断と迂闊を重ね続けて、原沢とキミハルのもとから離れていくと、なにかを覗くように船のへりから身を乗り出して、「さっさとしろほらぁ、逃げちまうだろ、イルカがぁ」と、さきほどよりはいくらか優しげな口調になってそう言った。

 瞬間、ドーンとデカい音がして、緑のしぶきが豪快に跳ね上がった。
 へりから身を乗り出していた白沢に、まるでその顔を狙ったようにして、強烈な波しぶきが襲い掛かって、鶏ガラでできたようなか細い白沢の体躯が、五センチほど浮き上がる。不意打ちすぎる一撃は、無慈悲なほど正確に、その細顎を捉えて打ち抜いていた。

 キミハルは、その一部始終を、どういうわけかスローモーションで繰り返し見ていた。
 緑色の波しぶきが、せりあがった手すりの向こうから盛り上がり、その先頭を行く水粒の一つが、先鞭をつけるようにして白沢の目の高さにまで飛び上がると、後続のエーテル波が怒涛の勢いで無防備に晒された顔面をめがけて突入した。これ以上ないほどの角度で次々に飛び込んでいく緑の特攻隊は、すべすべしてそうなお肌に跳ね返されて、透明のミルククラウンを次々に作り出したが、しかし時間にして万分の一秒もないほど後に、主力である本体の波しぶきが到達すると、個の力にすぎなかったものを結集し、その圧倒的な力によって、白沢の細顎を大きく跳ね上げた。

 クリーンヒットという他なかった。
 あまりに見事な一撃は、白沢の脳幹に快楽にも似たインパクトをもたらして、その膝を気絶の沼へ沈ませようと、灰色の大脳を縦に揺さぶった。
 
 しかし白沢はたたらを踏んでそれに耐え、飛びかけた意識を何とかつないで踏ん張った。
 ノックアウトされるわけにはいかなかったのだろう。
 なぜなら白沢は、海と戦う漁師なのだから。
 大自然の摂理と戦うのは、これ漁師の仕事である。
 その相手からの強烈な一撃、これに耐えてみせるのは、漁船の船長が示すべきプライドであるはずだった。

 しかし、それがいけなかった。

 エーテルのさざ波に濡れる鏡面仕上げの床は、ツルッツルだった。
 いまだ魂の揺れ動くキミハルのあずかり知らぬことではあったが、その床は原子レベルで整形され、一定以上の垂直抗力がかかると量子力学的作用として全てのものをツルッツルに滑らせるという今話題のQSC処理を施されていて、ほんとにツルッツルだった。
 どれくらいツルッツルかというと、ほとんど鶏ガラといってもいいくらいにガリガリな白沢の両足で踏ん張ったくらいでもツルッツルになってしまうほど、ツルッツルだった。
 そんなところに、エーテルの潤滑剤が撒かれているのである。
 それはツルッツルの床に、さらにヌルヌルのローションを塗布しているようなもので、そんな場所で、あろうことが踏ん張ってしまった白沢の両足は、本人がめずらしくも発揮したプライドの甲斐もなく、見事なまでに天に向かって突き出されていた。
 
 それは祈りであったかもしれない。
 白沢が、天に向かって両の足を突き出し捧げる伝統的な儀式の表れだったのではないか。
 そうと考えなければならないほどに美しく揃えられた両足が、そのつま先までをもピンと張りつめて、星々の瞬く夜空に突き出された。
 時間にして幾ばくも無い、ほんの刹那のことであった。
 しかしなんでか研ぎ澄まされていたと思しきキミハルの目に、その行為は、ハイスピードカメラで撮影したかの如くにゆっくりと、だがある種の明瞭さを以て知覚され、無意識のうちに広げられた掌の、指先にまで充填された力の先行きまでをもはっきりと、捉えていた。
 白沢の体が、ゆっくりと落ちていく。
 顎に食らった一撃に、白目をむいて、半ば失いかけた意識を繋ぐ口もとから、よだれの筋が舞い上がっていた。
 これが、儀式でなくて何であろう。
 そもそも。
 二本足で立つ生き物が、両足をそろえて天に向かって突き出すのは、二本の手を使って逆立ちするときくらいしかしないことなのだ。
 本来、生物の足というものが、大地を踏みしめるための器官であると考えるならば、残った両の手は、空を指し示すための器官であると言えるだろう。お互いの機能は完全に分離されていて、役割は全く異なっている。
 その両者の機能の違いを考慮せず、足によって天を指す、このようなことには、本来は生物学的意味はない。
 だとすれば、なんのために白沢は両足を天に突き出したのか。
 考えられることは、そう――祈りしかない。
 なにか宗教上の信念があってそうしたとしか、思えなかった。
 白沢にとって大事な――海の儀式的なものだったに違いない。

 つまり、こんなところでサンダルみたいなのを履いているのが悪い。
 それは、濡れた床の上で履くものではない。 

 そうして白沢は、神に祈りを捧げていると思しきポーズをとりながら、盛大に尻を打ち付けた。
 豪快さすら感じるほどに見事なしりもちをついた衝撃が、普通の人間でいえば尾てい骨の付近で爆発して脊椎を伝って上昇していくと、それが細いうなじを通って脳天に響きわたり、ノックアウト寸前で白濁しかけていた、その意識を覚醒した。
 しりもちをついた本人にとって、永遠とも思われる一瞬が、スローバックして次元の壁を越えたころ、白い霧は一本の電撃のような痛みに形を変えて、葉鰓の裏にある声帯を直撃した。

「あんぎゃあああああああ!!!!!ああああああ,p※p.@p<>?pかふぁおefa@,!?」
 
 本来は白沢本人しか知り得ぬはずの爆発的な尻の痛みが、支離滅裂な言葉となって現象世界に具現化されると、うわぁ……というキミハルの無言の感想によって、精神的シリアルとなって共有された。
 
 その中身は、まったく理解できなかったが。
 それが儀式であれば、なおのことであった。
 キミハルは内陸部にある海なしのS県出身だったので、海のことについては、よくわからない。ましてや、海で執り行われる宗教儀式についての知識は皆無だった。

 打ち付けた尾てい骨付近を抑えながら、白沢がもんどりうつ。
 痛みに耐えかねてのことか、ビチビチと跳ねるその姿は、釣り上げられて暴れまわる金色に濡れる白魚のようであった。
 白魚は、滑る床と痛みにしばらく悶え続けていたが、やがてその動きは緩慢になっていき、唸り声をあげてケツを震わせていたかと思うと、最後には、うつ伏せで尻を抑えた格好のまま、死んだように動かなくなった。

 死んだか?
 尻を打ち付けて死ぬ生物がいる。
 その衝撃に、キミハルは打ち震えた。
 そんなのは体重過多の肥満力士だけかと思っていたのだが、そうするとこの金髪ギョロ眼の白沢も、力士であるのだろうか。
 かわいそうに。
 こんなに貧相な力士がいたとは。
 序の口にも上がれなさそうだ。
 部屋でも冷や飯ぐらいに違いない。
 せめて篤く弔ってやるべきではないだろうか。

 いち早い埋葬場所の選定に取り掛かるべきか。
 だが、そういえば。
 キミハルも海に捨てられるのである。
 面倒なことを言わず、このままドボンで事は済む。
 思ったよりも、簡単だ。
 なぜだかその事実に嬉しくなって、白沢をもう一度見やる。
 うつ伏せに倒れこみ、尻を抑えるそのさまは、まるで浜にうちあげられた鶏ガラと見まがうばかりだった。あまりにも悲しい光景だった。ダシガラをエメラルドの波にさらしながらピクリともしなくなった白沢の、その憐れに同情していると、かすかに声が聞こえてくる。
「いてぇ……いてぇ……ちくしょう……死ぬほどいてぇ……コロスいてぇ……コロスぞ……くそが」
 生きてた。
 こういう時のためにも、贅肉はある程度、体のあちこちにつけておかなければならないのだ。ガリガリに痩せていることには、デメリットしかないと、これで白沢も気づくだろう。
 しかしその気づきに至るための代償は、少なくなかった。
 お尻痛いの感想を通り越し、まるで世のすべてを憎む呪詛の言葉を唱えるかのごとく、あてどのない恨み言が延々と繰り返され、それは文字通り、骨髄に至るまで、その憎しみがしみこんでいくかのようだった。

 しかも、悪いことは重なるものである。
 痛みと恨みに集中するあまり、死後硬直を起こしたかと思うほど無防備となった白沢の無様を狙ったかのようにして、世界が傾いた。

 それまでうちつけられる波濤の勢いを殺して、その微動を伝えるばかりだった鏡面仕上げの床面が、右に向かって大きく傾いていく。それに合わせて、そこら中に溜まっていた緑の海水達が、元居た場所へ帰る好機を求めて、勢いよく流れ出した。
 あたり一帯をうごめいて、まるで引き波のように流れていくエーテル流体は、沈黙にも似た状況の白沢をまきこみながら、その鶏ガラの体を浚って、船の向こうに連れ去って行った。

 ドボン。
 
 この音は、キミハルにも理解できた。
 流動性が高く密度もそれなりにあるが、重さのあるものを受け止められるほどしっかりした個体でもない感じのもが、重くはないが鶏ガラ程度には密度と重量があるといった感じのものを受け止めて、包み込んだ時にする音である。
 迂遠な物言いをやめ、率直な感想を端的な言葉で表すとするならば、『白沢が、海に落ちていった』。
 
 そして、その音を確認したかのように船はゆっくりと傾きを回復し、正常位置に戻った。

 白沢が捨てられてしまった。
 本来捨てられるべき存在である、キミハルを差し置いて。

 何が起きたのか、まったくわからない。
 どうして自分が捨てられずに、白沢が捨てられてしまったのか。
 誰かに状況の説明を求めたくなって、キミハルが頭上を探ると、何かコントローラーのようなものを手にした原沢が、鼻を振ってファンファンと音を立てた。

 視界の中の原沢の鼻が、赤い線で縁取られてから、文字が浮かび上がる。

 キミハルはその文字を知らなかったが、なぜか読めるような気がする。
 
“ (笑い声) 上手くいったな 

 悪いことは、重なるのである。
 偶然にして重なってしまった、のか。それとも、偶然を装って重ねた、のかは、この際、問題にするべきではなかった。
 こちらの視線に気づいた原沢が、機嫌よさそうに、その鼻を振る。

“ でもま、アンタと同じで、サーネリアンがあれくらいで死ぬワケねーんだよな (笑い声) 

 ラテンのリズムは、テンポアップしている。
 体をゆすり始めた原沢の向こうに、夜空が見える。
 いつのまに輝きだしたのか、無数の星々がひしめき合うように居並ぶきらびやかな夜空が。
 
 それはまるで、あの日のように輝いて。
 手を伸ばせども届かずに。
 かなたの空へ、あてどのない光を走らせている。
 
 原沢は、なんだか愉快そうだった。