頬のあたりをやさしく風がそよぐのを感じると、潘静はふと筆を止め、窓の外をみやった。
深山を真四角に切り取る木枠の向こうには、雨に濡れる空の色を映した灰色の山塊が、突き出た槍の穂先のようにして、いくつも天に向かって伸びていた。
夏を前に、西方から吹いてくる湿り気の濃い風を受け止めて、その先行きを遮る山々が、潤う緑をさらに色濃く増していくのを見ながら、漂う蒸し暑さから逃れるようにして、襟のたもとを払った。
本来、都の役室に務める下級官吏の一人であった潘静は、今はそこを遠く離れ、険しい山間を進んだ先で、山肌に寄り立ち、頽れるようにして傾いた小さな庵に籠っていた。
ふもとの森を抜け、崖と見まがうばかりの登山道を上った先に、この小さな庵はあった。
田舎育ちとはいえ、都にもそう遠くない小邑の出であった潘静には、その道のりは、いささか厳しく、地元の者の案内を請い、ようやくの事たどり着いたのは、数日前のことだった。
彼はこの庵で、文を認めていた。
孟廉という青年に送られた文の、その返事を、代筆しているのだった。
彼はこのようなことに慣れていなかったから、その想いを言葉として表すのに苦労するばかりで、その筆は、遅々として進まなかった。
目の前には、こじんまりとした文机があり、その上には潘静のものである文箱から取り出した墨と硯、筆、そして、雑紙と、一偏の白い漉き紙が置かれていた。
黄ばんだ雑紙は、すでに幾重にも重なった下書きの文章で黒く埋め尽くされていて、すでにその用を成すことが難しそうだった。一方の漉き紙は、彼の心を映すようにして、まったく濁りのない真白のままだった。
当世、政でも竹簡の代わりに漉き紙が使われるようになってきたとはいっても、それはまだ彼のような若い役人には、不釣り合いに高価なものだった。
鬱蒼とした木々のすき間から、まとわりつくように湿気をはらんだ空気染み出してくる。だいぶ慣れてきたと思ったが、今日のそれは、昨日までのものよりも輪をかけて不快であるように感じて、彼をひどく苛立たせた。
苛立たしさに、筆を持つことがためらわれる。
潘静は、硯へ向かって手を伸ばすと、竹筒から水の一滴をたらしては、ゆっくりと墨をすり始めた。
官吏になってからまだ二年も経たない若輩の身であった彼が、ある日、突然の呼び出しを受け、連れ去られるようにして参内したのは、豪奢な造りをした殿上の一室であった。
潘静は、もちろん皇宮の中になど入ったことはなかったから、朱塗りの太い柱が幾本も立ち並び、きらびやかな調度品に囲まれたその広い室内が、どこであるのかなどはわからなかった。
ただわかったことは、目隠しを取り払われた潘静の目の前にいた貴婦人が、美しかったということだけである。
貴婦人は、名乗らなかった。しかしその名は、聞くまでもなかった。
あまりのことに驚いた潘静が口をひらきかけると、傍らにいた侍女が剣を抜いて、その切っ先を口元につきつけてきた。わけもわからず、その剣呑な光に刺されて固まっていたが、わずかばかりとはいえ官吏として生きた時間と経験がその身を動かし、彼はその場で平伏していた。
正直、その時に何が話されたかは、よく覚えていない。
恐怖からではない。
一目見た、彼の女の美しさに、彼の心は奪われていた。
ふくよかで女らしさのあるまるい輪郭に、薄く引いた紅のくちびると、透き通った鼻梁の向こうには、穏やかな大河のきらめく眼差しが、深い慈愛をたたえてこちらを見据えていた。
美しい。あの貴婦人が。
そう。優しく、それでいてきらびやかに咲く、あの玫瑰の花のように――。
気が付くと、墨をする手を止めて、木枠窓の向こうに咲く玫瑰の花に目を奪われている。
生い茂る緑の葉から浮き上がるようにして赤い花を咲かせた玫瑰の花びらに、あのくちびると眼差しが重なっていくと、胸の奥に疼いた思慕が彼の心を傷つけていった。
彼はどうかしていた。
潘静が、この地に来たのは、あの貴婦人たっての願いであった。
しがない下級役人でしかない潘静は、否も応もなく託された文を届けるために、この地に向かうしかなかった。石床に圧しつけたままの額がひやりとその温度を失っていくのと反対に、彼の女が我にかける声をきくたびに、頬が燃えるように熱くなっていくのを感じていた。
なぜ呼ばれたのか。何を言われているのかは、よくよく考えなかった。
あの貴婦人のために身を粉にすることは、その一瞬だけで彼のすべてになっていた。
宛先の人物の名をきいて、落胆したのは間違いない。
だが、ここまでの道のりで彼の胸に燃えていたものが、消えずに燻ぶっていたのも間違いなかった。
だから潘静は文を携えこの山奥に来て、そして、その返事を携えて都に戻る。
そんなことがもう、三年も繰り返されていた。
失われえぬ思慕の情が、遠く都と僻地を繋いでいる。
そしてまた彼は、この小さな庵に貴婦人のつづる文を携えやってきては、真白の漉き紙に、孟廉の想いを代筆していた。
今年もまた、この窓からくすんだ山雨と、鮮やかな玫瑰の花が見えていた。
彼の眼に、いまだ彼の女は色褪せぬ美しき花だった。
潘静にとってそれは、すでに人生のすべてであった。
「こうしてなお、愛していますと、言葉を紡ぐだけの私を、どうか許してほしい……あなたも、そう思うだろう? 孟廉殿――」
潘静は尽きぬ愛の言葉を認めながら、その背の向こうで横たわるしゃれこうべに、そう呼びかけた。