むしろ時間をかけれなければ、このアニメの話をしてはいけない。
なぜなら私は、『SEED』の時も『OO』の時も、脊髄反射的に反応してしまって、その評価を誤ることになったからだ。
いや、今でも確かにSEEDやダブルオー(わかりやすいからこう書くけど)に関しては、言いたいことが一杯あるくらいには、「あまり好きではない」のだけれど、SEEDに関してはザフトの量産MSのジンが大好きだし、フリーダムもストライクフリーダムも、正直言って大好きだ。ダブルオーにしても、ち密に構築されている魅力的なSF世界がそれぞれの出来事に連動して変化していく物語のダイナミズムが素晴らしいと思う。
私が強く待ち望んでいた『力を持った主人公』と『ちゃんと強いガンダム』を体現したのはほかならぬSEEDだし、始まりから一つのSF作品として在ることに舵を切ったダブルオーは、間違いなくガンダムというシリーズが向くべき方向を見つけた作品であると思う。
だがしかし。
リアルタイムの放送当時、とくにSEEDについては、そのように公平な評価を下すことが難しかった。
なぜなら、私にとってガンダムとは、傑作という評価をしてなお有り余る魅力を持った作品であった『∀ガンダム』を以て、そこで『終わって』いたからだ。
同作の内容と魅力を語ることは、ほかの機会に取っておくとして、あの頃、私の中ではすでに、ガンダムという旅が、ディアナ・ソレルが迎えることのできた美しき黄金の秋に寄り添うようにして、その静謐なる世界に内包された穏やかな未来にむかうことで終結し、その全身をここちよい物語とほどよいSFの海に浸しながら、その満足感に満たされていた。
それは時間を経るほどに私の精神に溶けていき、∀ガンダムという世界はやがて、私の中で絶対的に尊ぶべき存在となっていた。
劇場版の公開も終わり、有終の美というものはこうあるべき、の模範ともいえるほどに綺麗に『終わった』ガンダムを、不必要によみがえらせる輩がいる。
という事実は、SEEDの初放映時、まだ二十歳――なんという遥かなる太古の時代――の若き倉井依にとって、衝撃的なできごとだった。
ガンダムは終わったはずなのに。
人は苦しむべきとして生み出される物語が癒されて、悲しむべき人間の業も癒されるべきとする結末が示されるに至ったのに、なぜまた同じことを繰り返すのか。
怒りによってガラケーで送られたスーパー長文メール(多分、10通くらいに分けて)一つ一つを読んで応答してくれた友人には感謝しなければならないが、最終的に彼女からもたらされた一つの言葉を以て、私は社会の裏に隠されたガンダムの真実を知るのである。
「でも結局は、ガンダムってガンプラの販促アニメでしょ。だから仕方ないのかもね」
そう。
ガンダムは、ガンプラの販促アニメなのである。
自分でもガンプラを買っておいて、その事実に気が付いていなかったわけではない。
なによりも大事だったのは、∀ガンダムのプラモが、全然売れなかったという事実であった。
どんな物語であっても、始まりがあれば終わりがある。
それは、『ガンダムという物語』においても同じだ。
コロニー・サイド7で、宇宙時代の棄民ともいうべき人たちに混じって生活するアムロ少年が、己の在るべき場所が人の生きる世界であると見つけるまでの旅路も、行き場のない青臭い怒りを戦争という暴力にぶつけたカミーユ少年が、どこまでも広がる宇宙のストレスに圧し潰されて己の殻に閉じこもることを選んだ結末も、すべてに始まりがあって、終わりがあった。
その物語のおわりが、∀ガンダムだった。
あまりにも抒情的な終わりを迎え、アニメ史に特筆すべき最終回となった第五十話『黄金の秋』の中で、ディアナ・ソレルという女性が長きにわたって追い求めたものと、その帰結が、私のなかにもすんなりと入ってきて、心の奥の方に、すとんと落ちて収まった。
一年戦争というミリタリズムとSF、そして架空戦記とロボティクスの融合に燃えていた倉井依という若者の情熱を、それはゆっくりとやさしく癒していった。
しかし。
ガンプラの売り上げは癒されなかった。
癒されなかったどころか、∀ガンダム関連のプラモの売り上げは、バンダイが終わってしまう危機をはらむほど危険だった。
倉井はガンプラの事情は、疎いといったくらいの知識しか持ち合わせていなかったが、∀ガンダムのプラモの売り上げが非常に悪いというのは、ホワイトドールのおひげに衝撃を受けた一人であるのも事実なので、想像に難くないことだった
バンダイという、遊びをクリエイトする会社(ナムコ)として、おそらくそれが、許しがたい状況だったのだろうことも、容易に想像がついた。
どんな物語であっても、始まりがあれば終わりがある。
しかし、ガンプラは続いていかなければならない。
人の生きる限りない旅路が現実にあり、それが物語の世界を蚕食するように展開されていくこの事実は、哀れなまでに美しく朽ちていく愁色に彩られたひと時の感動と、私にとってSFの宝石となりかけていたガンダムという存在を、商業主義という汚濁によって染められて、テレビ画面の向こうから手を伸ばしてきた下衆な大人たちに平手打ちされたかのような、ひどい侮辱を受けたような錯覚に陥らせた。
これはいまだに思うことの一つであるが、SEEDの内容そのものも非常に悪かった。
∀ガンダムの終了を以てして、一人の指導的立場の人物が、『ガンダム』から遠ざかることが明らかになり、そのタイミングでシリーズのリブートを狙って企画されたと思われるSEEDは、その内容をほとんど『機動戦士ガンダム』の模倣によって構成されていた。
設定から、キャラクターまで。話の隅から隅までが、滑稽なまでにひねりのないリメイク作品であるにもかかわらず、これこそがオリジナルなのだと時折に言い放つ製作者の傲慢も私の心の襞をいちいち刺激した。
これらのことが合わさって、そうなってもやむなしというほど、当時の私はSEEDという作品を、『ガンダム』の一つとして受け入れることを拒否していた。
癒されて終わったガンダムの世界を、また争いの歴史で苦しめるのはやめてほしいと願い、それでも血まみれの物語を繰り返していく、その所業を嫌悪した。
あえて弁明しておくと、私は特定のインターネット掲示板で猛威を振るったような、いわゆるSEEDアンチのような活動はしていない。
ただただ憎み、ただ否定するために毎週見ていた。
今思えばそんなものは何も健全ではないが、別のとらえ方としてみれば、『熱心なアンチが一番のファン』という王道のパターンであったとも思う。
転機が訪れたのは、やはり例の回だった。
例の回である。
SEEDという作品を語る上で、『SEEDの例の回』という表現に関しては、ほかのどんな言葉で言い換える必要もなく、ほとんどのファンが共通する特定の話を思い浮かべるだろう。もちろん、倉井においてもその例に漏れることはない。
それは『舞い降りる剣』のエピソードのことだ。
旧友との戦いに疲れ果て、その身を削りつくした主人公が、新たな決意のもとに、新たな翼を得て、一振りの剣となって絶望の戦場へと舞い降りる。
劇的に過ぎるこのエピソードはすでに、SEEDという作品だけではなくて、00年代ロボアニメの伝説となった話といっても過言ではない。
それまでSEEDという物語に対して、溜まりに溜まっていたフラストレーションがすべて爆発し、ロボ、アクション、ギミック、キャラ、そのすべての成り行きが完璧に開放される瞬間を迎える記念すべき回だ。また、SEEDという物語が、『機動戦士ガンダムの模倣』から巣立った瞬間でもあった。(ロボット乗り換えエピソードに関しては、いろいろ言いたいこともあるが、これもまた別の機会にしようと思う)
それは、私がSEEDを許すしかなくなった瞬間でもあった。
カッコいい。これほどカッコいいロボットの登場の仕方があるだろうか。
演出もさることながら、ハイマットフルバーストするときの演出が必殺技すぎるぅ😂
必殺技のカッコええガンダム最高すぎひん???😆
って、一瞬でなった。
この半端ではない掌返しによって、当時の私の手首は一瞬にして複雑骨折したほどである。
ちなみにスーパー長文メールに丁寧に応答してくれた友人には、お詫びとしてデニーズのデザート類をおごらされた。
人間というもの(意図的な主語の肥大化)は、このようにして、自分の考えや物事への評価を転換できるものなのである。
一つのことを激しく思い、いつくしむことができる一方で、それが裏切られたときに、苛烈な憎しみの感情で染め上げることもできる。
物事を計り、その価値を定め、中身がどうあるのかを評することが、つまりは人間の心の中でしか成しえないことで、それが確実な古文資料による検証ができるものでもなく、定量的なデータを用いて数値化することに絶対的な意義があるわけでもないことであるならば、それは致し方ないことでもあるかもしれない。
と、今は考えるようになっている。
私のアニメ作品に対する評価というものは、このようにしてコロコロと変わるものであるし、今は既にそれでいいと思っているので、むしろ、その時その時に思ったことを書いてしまっていいのかもしれないとさえ考えているのだけれど、それでも、やっぱり脊髄反射的な物言いや考えを披露するのは避けるべきなのかもと思う。
最近、オーバーロードというアニメ作品を見て、なかなか良いな!って思って呟いた瞬間から、あれ全然盛り下がるやんこれ……という著しい下降曲線を描いた展開もあるので、ここはなおさら慎重になっておきたい。
それでもあえて記しておくのなら、ファーストノートとしての水星の魔女の印象は、たぬきちゃんかわいい以外になかったし、二話時点においては、物語も悪くないというのが正直なところ。
あと、たぬきでロボットで白と水色配色って、あきらかドラ〇えもんじゃんかっていう。
それだけ。
ちゃんと見てるよ! ってことだけを確かなこととして、感想はすべてが終わったのちに回すことにしようと思う。