暗いところは、好きではなかった。
そもそも暗いところが好きな人など、いるのだろうか。
いたところで、そんな奴はどうせ碌な奴ではない。
仁晴のように。
波の音が岸壁を叩くと、潮風が巻いて仁晴たちの間を駆け抜けた。
夜半もすぎて、照明の消えた港には、仁晴のほかには、三人の男たちと、一人の女がいるだけだった。
今となっては、すでに逃げる気もない。
逃げられる場所など、どこにもないから。
仁晴の歩いてきた起伏のない平らな人生には、易しくその歩を進めるために必要な、おおよそ全てのものが用意されていた。
元に戻る道はなく、一時に身を隠す場所もありはしなかった。
ただただ前に進めばいい。
ただそれだけのことだったのに。
まっすぐに続き、地平線の向こうにまで広がっていると思われた世界の行く末は、しかして視力の悪い仁晴にとっては、ぼんやりとした緑色の塊がみえるばかりで、無限の可能性どころか、すぐ目の前のものに目を止めることすら難しい。
だから、みないでいた。
大事なことは、みないようにしていた。
だってこれは、自分の人生なんだから。
行きたいとこにいけ。
大学に行きゃ、そのあと座る椅子だけはある程度、用意できるからさ。
そういって、大学に行くことだけは普通に強制してくるのよね。
あの人の自由にしろって、俺の鳥かごの中で自由にしろってくらいの意味しかないのよ。
ぜんぶ私たちが、用意してあげるから。
あなたは受験、頑張ればいいだけ。
あんたもどうせ、そういわれたんでしょ。こっちのこと心配しているように見せるのだけは、ほんと一級品よね。
大根だったからお父さん掴まえて家庭にはいったくせに、家族をだます芝居だけは続けてる。
いっつもいっつも、あんたみたいに自由に生きてきたことなんてなかったよ。
こんな息苦しいところにいるのは、本当はごめんなんだ。
長男だからって生きてきたのはあんたの勝手で、それ私が文句言われるようなことなの?
そういうなら、私にとって『あんたの姉』でいることだって、後から生まれてきたあんたに押し付けられたようなもんでしょ。
でも。
押し付けられた役割で生きていくなんて、こんなに楽なことないじゃない。
世間様なんて、そこそこ真面目に生きていけば、それだけで何の文句もない人たちの集まりなんだから。
あんた、頭そこそこいいんだし文句言わずに行きなさいよ。
また来年にさ。
こんなに楽なことなんて、ないじゃない。
そういわれて足元をみていなかった仁晴は、その道がいつのまにか、ぐねぐねと曲がりくねって、誰も知らない行き先に向かって消えていくことに、気が付いていなかった。
そうしてコンクリートの森に迷い込み、見えない坂に足を採られて転げ落ち、目を覚ましてみれば、そこは見も知らない港町だった。
目を覚ましてみれば。
あの日、人生に目覚めてしまってからは。
目覚めた人生はまっくらで、どこを見ても標識一つない荒野にあった。
いまは、あたりに満ち満ちてきた波の音を聴いている。
パンツの生地が包んだふくらはぎを、ひやりとしたものが撫でていく。
蹴とばされ、突き飛ばされてここまできたせいもあり、体のあちこちが鈍く痛んだ。倒れた拍子に打ち付けた頬は擦り切れて、潮風が染みると熱をもって疼いた。
うずくまったまま、仁晴は真っ黒なアスファルトの地面を見つめていた。
いや、もしかしたら砂利の荒いコンクリートかもしれない。
暗くてよくわからなかった。
暗くてよくわからないまま、目の前に転がる砂利の一つを、いつまでも見続けていた。
それほど長い時間ではなかったはずである。
今までの人生に比べれば、小指の先ほどの時間でもあるまい。
地球誕生四十六億年が真実の間尺であるとするならば、その長さには一ミクロンの値もあるわけがなかった。
ほとんど細胞一個ほどにもないくらい。
それを構成する原子を取り巻く電子の一粒が、その周りを周回するほどの時間くらい。
だからもう、何も言うまい。
だからもう、何も思うまい。
すでに言葉を尽くすときは過ぎていた。
すでに数か月も前に。
今日ここにこうしているのは、仁晴のせいであって、そのせいではない。
自分が何をしようとしていたのかすらわからなかった、その自分自身のせいなのだ。
みっともなくあがいてどうにかなる時間は終わった。
それがわかっているから、微動だにしない仁晴を、男たちは夜中の夜よりも暗い眼光をその双眸に灯しながら、それぞれの蔑みと、それぞれの無関心を投げかけながら見下ろしていた。
男のひとりが革靴のつま先を蹴上げるようにして仁晴の脇腹にめり込ませた。
突然の一撃に身構えることなどできないままに、仁晴は勢いのまま仰向けに転がされた。
内臓まで浸透するような鋭い衝撃が、反対がわの肉にまで到達し、仁晴を形作る内臓を貫き通して鈍い痛みをもたらした。
右の脇腹を抑え、あえぐようにして、胃の負の奥から呻き声を絞り出す。
痛いという感覚が爆発し、
苦しいという感情が腹の底に沸き起こっていた。
それでも。
誰も、何も言わなかった。
ただ仁晴だけが、呻いていた。
その痛みに。
その結末に。
仁晴を蹴り上げた男が、何か汚いものにでも触ってしまったかのような不満げな様子で、唾を吐いた
それらを無言で見つめていた男の一人が、くわえていたタバコをぷっと吹き捨てると、火のついたままのそれが、仁晴の顔のあたりに落ちた。そのまま男は、己の内に淀んだ滓を、そとの世界に押し付けるようにしながら、ゆっくりと口の中で燻らせていた煙を吐き出した。
真白の煙が夜を漂う。
しぐれに裂けて別れたそれが、
風に舞ってはうろたえた。
どこかで嗅いだことのある匂いがした。
あまく、そしてどこかむず痒いような、チョコレートの香り。
カカオの熟した、あつぼったい土色が滲んだタールの重さが、鼻の奥に募る。
これはいったい、なんだったろう。
何の匂いだったろう。
頭の奥底に染みこんでくる何か、があった。
あるような気がすると言えばいいのだろうか。
刺激が強い。
重い、重い、重いタールの淀みが、還って私の心の内に溜まっていく。
そう思いながら、揺れる煙の行く先だけを追っていた。
空が見えた。
昇りゆく煙の先の、雲のない夜。
しかし星の見えない空。
いつのまにか眼鏡に入っていたヒビが、うっすらと光を帯びて、夜空を幾つもの世界に分断していた。
そこからさらに高く昇っていく夜空に、ほくそ笑むようにして浮かんだ薄ら笑いの月が、さらに遠い遠い世界から、仁晴たちの方を向いて、その口元を歪めていた。
あれは、誰だったろうか。
誰かに似ているような気がする。
そんなもの誰でもよかったが、しかしそう思うからには、あれはなにか仁晴の心の奥底をしげきした。
天の上から偉そうにして見下ろしてくるやつもいるものだ。
生意気にも、人が精いっぱい生きているのを眺めて見ながら、嘲笑っているのだろう。
にやりと動いた口がひらいて、空が裂ける。
白んだ唇の向こうから、真っ赤に染まった舌が見える。
トカゲのそれとみまがうようにとがったそれが、何か言いたげに、チロチロとせわしなく動いていた。
何が言いたいと言うのだろう。
そんな空から見上げていても、その声を聴くことができるわけではないだろうに。
残念ながら、人間というものの心も耳も、そんな場所から語り掛けるような奴のためにはできていなかった。
仁晴の耳も、例外ではない。
耳を澄まそうにも、夜中の潮騒は、思ったよりもうるさくて。
天から囁いてくる誰かの声を聞き取るには、それはあまりにも騒々しくあたりに満ちていた。