2023年2月5日日曜日

哀れ幻想の歴史に生きる人々。


 歴史認識にゆがみが生じていて、真実を捉えることのできない哀れさを感じる。

 結論から言わせてもらうけど、李氏朝鮮の時代に朝鮮半島から持ち込まれた仏像は、窃盗や略奪による収集物ではない可能性の方が高い。
 そもそも李氏朝鮮というのは、儒一尊どころか、儒教を国教として定め、廃仏崇儒を国是としていた国であり、仏教を弾圧して回っていたというのが真実の姿で、仏典や仏像は、故意に海外へ『逃がされた』と考える方が自然だ。

 おさらいも兼ねて確認しておくが、このころの朝鮮半島における仏教というものは、日本におけるお寺や神社のような、高いレベルの宗教的、政治的権威を伴った組織や集団ではなく、公に弾圧されるべき被差別集団だった。

 元々、朝鮮半島では前王朝の高麗時代には、仏教がとても盛んだった。
 けれど、仏教を篤く保護しすぎたために、天台宗と曹渓宗という二大派閥の政治闘争にまで発展してしまい、これが高麗王朝滅亡の一因にもなった。

 この高麗を倒して興った初期の李氏朝鮮は、文官のほとんどが儒者で構成されていた(儒臣という)ために、国教として『儒教』が採用されるに至った。そもそも王朝の始祖である李成桂が儒者たちに担ぎ上げられたという経緯もあり、その結果として、ある意味では前王朝の遺物、残党としての性格も備えた仏教勢力は、とにかく弾圧された。
 この弾圧の首謀者である儒臣たちは、その後の歴代政権で、官僚として政治の中枢にどかんと居座ったものだから、李氏朝鮮は、その内容の軽重は別として、滅亡時までずっと仏教弾圧に勤しむことになる。

 それだけであるなら、「ありがちな政治と宗教の歴史的一幕では??」ってくらいなのかもしれないけれど、困ったちゃんなことに、李氏朝鮮の王族たちは、儒臣たちの言いなりになって滅茶苦茶に仏教を弾圧する政策を採りながらも、自らの死の間際には、必ず仏教に帰依して死にたがるという、どうしようもない悪癖があった。

 始祖の李成桂からみんな(と極論してもいいくらい、みんな)、必ず死ぬ間際に仏教徒を保護するポーズだけして死んでいく。あるいは、様々な理由――自身が信者であったり、または儒者たちに対抗するために支援を求めたりする――によって、中途半端に仏教保護政策を行っては、その途中で挫折するのである。
 そしてその時々に儒教側から反動が起こって、次王の代の頃には、逆に王権の正当性を示すためにより苛烈さを増して仏教弾圧が再開されてしまう、というところまでがセットになる。  
 李氏朝鮮の歴代政権は、ある時は官僚をなだめるために仏教を弾圧し、ある時は官僚と戦うために仏教を保護したりし、これが国是だからといって仏僧を虐げるが、その死の間際には魂の救済を求めて呼びつけるというように、たちの悪い自家撞着的な政策を、滅亡の間際まで採り続けた。

 記事において「略奪の蓋然性がある」とされた文禄・慶長の役(秀吉の朝鮮出兵)の頃についても、その例に漏れることはない。 
 
 まずその前史として、戦役に先立つこと百年ほども前の1400年代中期に、李氏朝鮮建国当初から幅を利かせていた儒教官僚(勲旧派両班(事実上の貴族層))が、王族を政治の舞台から追い出すことに成功(≠簒奪。儒教は長者を奉ずるための教えであるので、王権を奪わない。むしろ王権は強化された)し、儒臣による事実上の政治の専横体制が確立したことを知っておきたい。
 さらにそこから、士林派(事実上の地方貴族(一般的な両班のイメージはこれ))と呼ばれる人々が中央政界に進出しはじめるのだが、勲旧派と対比されるこれらの人々も、しかしてやはり儒臣だった。
 やがてこの勲旧派と士林派は、時の王の庇護を獲得しようと政治的闘争をはじめるわけだけど、どちらが権力を保持しようとも、その中身が同じ儒臣であるために、自分たちの正当性をアピールする行為の一環として、必ず仏教を弾圧、抑圧する政策を王に行わせるのだけは共通していた。
 どっちが勝っても、同じ儒者というわけ。

 これらのことは、部外者である我々日本人の側から一見すると、「歴史的・政治的不安定から仏教が弾圧されたのか?」と感じてしまうのだけど、李氏朝鮮においては、国家の運営体制を安定化すると仏教が弾圧されるという、政策の捻じれ模様(のように見える)がある。

 1400年代後半からの歴史はとくにわかりやすく、李氏朝鮮の文化的絶頂を迎えたと言われる第9代王・成宗の時代は、政治的にも治安的にも、ものすごく安定した40年間を送ることになる。その間、仏教は徹底的に弾圧されて、朝鮮半島の寺院は、ほとんどが廃絶されたという。
 これはなぜかというと、廃仏尊儒が国是である朝鮮国王としては、真面目に王様の仕事するということが=廃仏するということだからである。仕事をすればするほど、廃仏して僧侶の権利をなくしていき、代わって、儒者の権利権益を拡大することになった。

 次代、成宗の子であり、王位にも就いた燕山君は、儒教における理想の聖賢だった父親とはまるで反対に、酒色にふける堕落した暗愚な王として君臨した。しかしこの燕山君がしたことといえば、朝鮮全土の美女を収集し、三度にわたる官僚の大粛清を行い、大きなお寺を接収して酒池肉林の総本山へと改装したくらいのことである。 

 この燕山君がクーデターによって王位を廃され、弑逆の憂き目にあってしばらくのあと、13代王・明宗の時代に、その母である文定王后によって垂簾聴政(男系王統における女性による摂政)が行われた時には、実は熱心な仏教徒だった彼女によって、短い期間であったものの、仏教はクソほど擁護された。この文定王后は、自身がかなり有能で、垂簾聴政が行われた前後は、勲旧派を自らの下に付け、士林派には大弾圧を行って、政治の実権を自ら握るほどであった。それゆえに、仏教の保護もできたというわけ。
 しかし知っての通り、儒教というのは男尊女卑のお手本のような思想を持った学問であり、宗教である。当然ながら、『敵である仏教の信徒であり、王の臣下である我々の仕事を邪魔するばかりか弾圧している、女』という数え役満みたいな存在とそれがもたらした状況が、いつまでも許されるわけがない。王后の死後には、待っていたかのように(実際待ってたんだろうね)仏僧に対する大弾圧が始まるのである。
 
 ここまでの流れで、安定すると弾圧、政権がガタガタすると仏教優遇。そののち、また大弾圧という具合が、なんとなくわかると思う。

 そしてここまでが、だいたい秀吉による朝鮮出兵前夜となる。
 人によっては、文禄の役前後の李氏朝鮮側の立場を正当化したいがために、「このころの仏教弾圧は穏やかだった」などという人もいるが、それはまったく正しくない。普通に正常運転で仏教弾圧をしていたというのが正しい。
 さらにこれに加えて、朝鮮出兵時点の国王である14代王・宣祖は、自身がガチガチの儒学者だったこともあって、くそほど士林派を登用するという朱子学右派みたいな存在だったので、余計、自体は悪化していた。

 こういう状況の中、秀吉は朝鮮に出兵した。
 出兵しました。
 さて。
 政権が変わろうが、官僚が変わろうが、100年以上にわたって、常に虐げられてきた朝鮮半島の仏教は、秀吉の『朝鮮出兵によって』、『略奪』されたがゆえに、仏像や経典、希少な文物を失ったのですかね?
 そもそも略奪するほどの仏像が、本当にあったのか。
 本当にあったのだとすれば、その仏像たちは、どうやって百年以上にわたるしつこい廃仏政策を採る政権下において生き残り、しかも、昨日今日来たばかりの侵略者の目の前には忽然と現れて、易々と奪われて行ったのか?
 不思議なこともあるものですね。 

 廃仏尊儒の大弾圧のさなかにあって、その収蔵物が見逃されていたとは、ほとほと考えにくい。秀吉の朝鮮出兵時点においては、朝鮮半島は仏僧にとっては試練の荒野も同然の土地であり、仏教にとっては信仰の花実が刈り取られ、それでも負けじと萌え行くその芽吹きまでもが掘り起こされて捨てられる、信仰不毛の地であった。
 それは、長い時間をかけて、為政者によって行われた宗教弾圧の結果であり、侵略者が来たから始まったことではないのだ。
 しかも「俺は仏教をぶっ壊してやったぜ!」と言って胸を張って自慢しているのは、誰でもない歴代の李氏朝鮮王自身である。
 それがまさか、秀吉が侵略してきた途端、失われた仏像が突如よみがえり、すばらしい仏寺が往時の姿そのままに再建されていたなどということが、あるのだろうか? 仮にそうしたすばらしい仏教の奇跡があったとして、それを日本の兵士たちが壊して回ったがゆえに、多くのお寺が壊滅し、せっかく顕現した仏像はあらかた奪いさられ、世界中に流出してしまっただなんて、そんなことがありうるのだろうか。
 あなたたちの王様の事績として廃仏抑仏的な措置はこれでもかってくらい山ほど記録されているのに、仏教寺院関連の物に関しては、失われているのも奪われたのも、全部秀吉軍のせいとなる。
 いやはや、本当に不思議なこともあるものですね。(二度目)

 まったく愚かしい話である。
 そもそも前述したように、実際の王族や貴族たちは、官僚人士の過激な廃仏思想とは別に、心の奥底では、仏教を篤く敬う心を残していたという事実を考えれば、廃仏と見せかけて、仏像や仏典などを、ひそかに場所を移して保存しておいたのではないか? と考えることは容易い。
 そういったものが、どう扱われたのかという歴史的経緯を解釈する(想像する)ことは、筋道を立ててさえおけば、小学生にだって容易にできる推理である。

 資料が残っていないからわからないのだ、その資料は倭寇のせいで失われた。という思考停止は楽なのだろうが、まずは、廃仏政策を採っていたのは、自分自身であるという真実を見つめなおしてほしいものだけれど、それについては、もう期待していない
 なぜなら、朝鮮半島の人々が自らの歴史を語るときには、必ずと言っていいほど、自分に都合のいい言説しか用いないからだ。自分に都合のいい言説しか用いないというのは、逆を言えば、「自分に都合の悪い言説」をしっかりと認識して、それらをあえて排除しているということである。彼らは、わかっているのにわからないふりをするし、自分に不利な事実を知らないふりをしているだけで、それらのことについては知っているし、わかっていないわけではないのである。
 
 私は、李氏朝鮮の歴代政権が、仏教に対して執った抑圧的な政策についていえば、何ら問題はないと思っている。
 それは今となってはただの歴史で、李氏朝鮮にとって、開祖・李成桂から始まる伝統の一部分であり、当時、仏よりも儒が尊ばれる価値観だったというだけで、何ら恥ずべき事態ではない。
 李氏朝鮮という国が、たとえ強者に膝を屈したか弱い朝貢国であり、文化帝国として大陸に君臨する大中華『明』から輸入した儒という思想の元で育った抑圧的な小中華王朝であろうとも、それはただ朝鮮半島の歴史と文化であるというだけのことで、それについて批判をする意思も権利も、私には一切ない。

 ただ、そのような状況において、仏像という仏教における核心的とも言える崇拝の対象が、破壊され、失われるかもしれない危機を乗り切るために、どのような手段がとられたのか。そして、どういう目的で以て、対馬をはじめとした諸外国地域に朝鮮仏教の至宝が流れ出ていったのかということを、今一度、自分たちで、しっかりと、深く、考えていく必要があるのではないかと言いたい。

 そうでなければ、哀れすぎる。
 歴史を知らない、知ろうともしない、いや、知っているのに知らないふりをする愚かな人たち。
 あなた達にだけ都合のよい昨日など、ありはしないのに。